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2024年10月31日 (木)

本「ナポレオンと東條英機」① フランス国家の作曲者は「一夜だけ天才」

   

今日は令和6年10月31日。

  

この本を読みました。

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「ナポレオンと東條英機」(武田邦彦著/ベスト新書)

  

サークルで、「社会科教師なら、この本を読まんといかん」と

先輩の理科の先生に言われました。

明日、図書館に返す本です。

どんどん引用します。

  

イギリスの「王室」と日本の「皇室」は大違い!

もう一つは、イギリスの「王室」と日本の「皇室」の違いです。

もともとのイギリスの王室は、イングランド、スコットランド、アイ

ルランドの王であったスチュアート朝です。 スチュアート朝の最後の

王様はアン女王です。彼女は子供をたくさん産んだのですが、すべて

早世して跡継ぎがいませんでした。

イギリスに適当な王位継承者がいなくなったので、当時の神聖ローマ

帝国、現在のドイツの有力な貴族だったハノーバー家のジョージ一世

がイギリスに来て即位し、現在のハノーバー朝となりました(その後、

イギリス流の名前が良いと言うことで「ウィンザー朝」と名前だけは

変わっています)。

王様が絶対的な権限を持つのではなく、王権が制限される「立憲君主

制」はイギリス発祥ですが、それはドイツから来たジョージ一世が英

語をほとんど話せなかったことによると言われています。言葉が通じ

ないので王としての統治ができず、その結果、議会が実権を握って、

立憲君主制が始まったというわけです。

一方、日本で天皇の跡継ぎがいないときに、大陸(たとえば朝鮮や支

那) から天皇がやって来るということは「日本の常識」で考えられる

でしょうか。そんなことはあり得ません。日本語を話せない外国の王

族が日本を統治するなど考えられないことでしょう。

天皇は「日本民族」を象徴する存在ですから、「日本の中の皇族」を

天皇に立てること以外はとうてい受け入れられないのです。

この二つの例からわかるように、世界の島の中で古くから「国」があ

ったのは日本とイギリスですが、実はイギリスは日本のように「一つ

の国」というよりも、西ヨーロッパという地域にある諸国の王室が支

配する「一つの地域」でした。

現在、「EU」と呼ばれるヨーロッパ共同体が生まれるのも、このよう

な歴史的背景があるからです。もともとヨーロッパ、特に西ヨーロッ

パの民族はアーリア人で、ドイツのゲルマン、イギリスのアングロ・

サクソン、そしてスウェーデンやノルウェーなどのノルマン系の人た

ちはほとんど同じ民族です。

(42〜43p)

  

イギリスで、立憲君主制が始まった経緯(いきさつ)が、

興味深いです。

いつもだと、ここでネット調べに入りますが、今回は省略です。

時間がないです。

  

  

「人間ではない人間」がいた?

フランス革命前夜は、現代の人から見ると、もう一つ理解できない

ことがあります。それは、フランス革命の前は「人が人ではなかっ

た」ということです。

当時のヨーロッパでは、人間は「高貴な人間」 「完全な人間」

「不完全な人間」 「人間ではない人間」の4つに分かれていました。

インドのカースト制度では、最上級のバラモンから最下級のシュー

ドラまで4つに分かれた人間がいて、どんなに出世してもそれを破

ることができないことが有名ですが、それはヨーロッパでも同じだ

ったのです。

「高貴な人間」の代表が王族と貴族で、社会の指導層として特別豊

かな生活をしていました。次は「完全な人間」で、「白人」 +

「男性」 + 「成人」 + 「社会的な義務を果たす」という4つの条

件が必要でした。簡単に言うと「独立した生活を営むことができる

成人の白人男性」ということです。

では、女性はどうだったのでしょうか。 失礼な話ですが、女性は

「不完全な人間」とされていて、単に「人」と言った場合、女性を

含まないのが普通でした。たとえば、フランスの人権宣言では「人

は生まれながらに平等」としていますが、この場合の「人」は「高

貴な人間」と「完全な人間」だけを示した単語が使われていて、

「不完全な人間」や「人間ではない人間」は含んでいません。

有色人種も「不完全な人間」、そしてアフリカから連れてきた奴隷

やロシアには農奴がいて、これらの人は「人間ではない人間」でし

た。

つまり、フランス革命の人権宣言は人類に「平等」をもたらしたと

されていますが、その実、平等は「成人の白人男性」だけに限られ

ていたのです。このことからも、現在の常識で歴史を考えてはいけ

ないことがよくわかります。

(48〜49p)  

  

「人は生まれながらに平等」の「人」についての解釈に驚きです。

  

  

このように、旧体制の抵抗と、新時代の力は衝突し、いつでも悲惨な

血が大量に流れました。フランス革命では他国との戦争ばかりではな

く、国内的にも「ギロチン」という新しい処刑装置が考案され、パリ

の広場で次々と首が跳ねられたのも、激しい社会変化の中での人間社

会の必然的な結果とも考えられます。

考えも及ばなかったブルボン家の王(ルイ十六世)と后(マリー・アン

トワネット)が断頭台の露と消えたのも、そんな人間社会の激しい変

化の結果でした。

歴史の流れとは実に不思議なもので、大きな社会の矛盾が一気に解消

に向かうと、そこで革命とか大戦争が起こり、それらはいったん始ま

ると止まるところを知りません。

最初は、ちょっと変わるだけと思っていても、矛盾が大きければ大き

いほど、徹底的な破壊にまで進みます。

フランス革命のきっかけは、「バスティーユ監獄の襲撃」という小さ

な事件でした。誰もが「王政をひっくり返そう」 「ギロチンで王族を

みな殺しにしよう」と思っていたわけではありません。 そのときの

体制のままで「ちょっと自分たちの待遇も良くしてほしい」というぐ

らいだったのです。それはちょうど、たき火をしていたら、折からの

強風と乾燥した空気で家に燃え移り、瞬く間に一つの町を焼き尽くす

大火になってしまったというのに似ています。

そして大火になった後、振り返ってみると、「なんであんなところで

たき火をしたのだろうか」「最初に家に火がついたときにもっと早く

消火すれば良かった」「あいつがバケツの水を持ってくるのが遅かっ

た」「風が強かったのだから町の人にもっと早く危険だと呼び掛ける

べきだった」などと反省しきりになります。

冷静に考えると、フランス革命もあれほど多くの人たちをギロチンに

かける必要があったのかは疑問です。

フランス革命は最後の段階でロベスピエールという過激な革命指導者

が登場し、次々と政敵をギロチンで粛正して革命を完成させます。今

考えると、ロベスピエールという人物の登場と、彼が行ったものすご

い数の処刑は非難されるべきものですが、同時に、彼は「歴史が必要

とした人間」でもあったのでしょう。

古いものを一掃し、新しい時代を拓くには、少し乱暴でも古いものを

徹底的に破壊してしまう人が登場し、その後に真に新しい社会を作る

段階に入るのです。

(56〜57p)

  

ロベスピエールは、「歴史が必要とした人間」

これについては、もっと勉強してみたいと思います。

    

  

フランス革命でも、新しい時代を作るために登場したのがナポレオ

ンです。そして、そのナポレオンの登場という人類の歴史の序幕を

演出したのが、後にフランス国歌になる「ラ・マルセイエーズ」を

作曲したルジェ・ド・リール大尉でした。

その時期、まだ革命は大きな流れにならず、国王ルイ十六世は生き

ていました。ですから、状況は流動的でした。外国との関係でも、

革命を阻止しようと干渉してきたオーストリア皇帝とプロイセン王

に対して宣戦布告され、フランスは挟撃されて危機に陥り、危機を

感じた市民は「自由の子よ、武器を取れ! 戦旗はひろげられた!」と

いう興奮の中に入ろうとしていました。

長い封建制の時代を破るエネルギーが次第に沸き返り、その熱気が

パリに集まっていました。今から見ると無計画に進んだフランス革

命は、時代の重みがパリ市民を駆り出し、その熱気はやがてルジェ

大尉が住んでいたパリ郊外のストラスブールの町にも伝わって来た

のです。

ストラスブールのディートリッヒ市長に軍歌の作曲を依頼されたル

ジェ大尉は机に座りながら、たまにしかしない作曲に取り組んでい

ました。戦争が始まり、進軍が開始されると軍歌の一つも必要だろ

う、それもこれまでのような傭兵が歌う古くさいものではなく、新

しい自由のもとで、市民の軍隊の前で演奏されるにふさわしい曲が

必要だと市長は考えたのです。

ルジェ大尉は趣味で曲を作ることはありましたが、専門の作曲家で

はありませんでした。軽い気持ちで市長の頼みを聞いたものの、現

実には詩も曲も沸いてこなかったのです。曲が浮かばない中で、螺

旋階段を上りながらルジェ大尉は、突然、フランスの畑が外国の軍

隊に踏みにじられて、肥料の代わりにフランス人の血が畑に注がれ、

農民が叫ぶ声が聞こえたと伝えられています。

行こう 祖国の子らよ

栄光のときは来た!

祖国への神聖な愛よ

みちびき支えよこらしめのわれらの腕を!

自由よ 最愛の自由よ

たたかえわれらのその守り手とともに!

突然、 沸いてきた感激の中で、 ルジェ大尉の手は動き続け、歴史的

な曲作りを終えたのは、夜明けを迎えた光がストラスブールの町を照

らし始めた頃でした。 ルジェ大尉は自分の体から興奮が消えて、その

まま深い眠りについたと伝承されています。

その日の夕方、市長の家で市長夫人同席の中で新しいこの行進曲が披

露されました。歴史的な多くの場面がそうであったように、その場に

居合わせた人々は、まさかこの曲が未来のフランスの国歌になるなど

誰も想像もしていませんでした。

「お集まりのみなさんは大変満足してくださいました」

記録に残っている市長夫人の手紙にはそう書いてあります。

不滅のメロディーが普通のほめ言葉でそのデビューを飾るのも、仕方

のないことです。そしてルジェ大尉の作曲したその歌はそのまま忘れ

去られ、軍歌として作られたのに、行軍のときに演奏されることもな

く、歴史の中に消え去ろうとしていました。

でも、これも歴史が証明するように、作品に宿っている本来的な力は

やがて目を覚ますもので、そのまま消え去ることはありませんでした。

しばらくすると、この歌は再びどこからともなく歌われ始め、新しい

歌「ラ・マルセイエーズ」は革命さなかのフランス全土に爆発的に拡

がっていきました。

「なんという素晴らしい、心を奪う歌なのか!」

不思議な力を秘めたこの歌は、瞬く間にフランスのあらゆる戦場で唱

われ、自由になった感激を味わいながら多くの兵士が死んで行ったの

です。

ところで、ルジェ大尉は一夜の作曲で大作曲家になりましたが、もと

もとはそれほど才能がある男ではなかったので、再び優れた曲を作曲

することはありませんでした。むしろルジェの晩年は、罪を犯して監

獄に入ったり、ナポレオンの誘いを断って毒づいたりという偏屈な老

人になり、片田舎でその一生を終わります。

なぜ、 ルジェが「一夜だけ天才」になったのでしょうか。 世界の歴

史の大転換点にあって、軍靴の響く夜に彼は霊感を受けたのでしょう。

歴史はナポレオンのような巨大な人物を作り出すばかりではなく、ル

ジェ大尉のような人を「一夜だけ天才」にさせたりもするのです。

日本でも幕末から明治維新にかけて、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、

勝海舟など多くの傑物を一気に生んだことを連想させます。

(58〜61p) 

  

有名なフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」には、

こんな話があったのですね。  

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