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2024年3月20日 (水)

本「高熱隧道」⑤ 2度目の泡雪崩

   

今日は令和6年3月20日。

  

前記事に引き続き、

「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)を読んで、

印象に残った文章を引用していきます。

    

貫通直前の隧道工事では、両工事班の切端が極度に接近した時、穿孔

(せんこう)鑿(のみ)の尖端が相手側の切端に突き出れば、最後の

発破は鑿(のみ)を突き出させた側の権利となるという約束事がある。

その「鑿先をとる」ことが人夫頭・人夫たちの最大の悲願なのだ。そ

のためには、最後の発破の瞬間まで敏速に掘進作業をつづけねばなら

ない。

双方の坑道内に電話がとりつけられ、互に坑内連絡がとれるようにな

った。仙人谷工事班長沼田からも、阿曾原谷工事班の鑿岩機(さくが

んき)の音がきこえてくるといううわずった声が流れてきた。

翌十七日、仙人谷側坑道の切端で午後四時の発破が仕掛けられたのに

つづいて、一時間後には阿曾原谷側で岩盤がダイナマイトの起爆によ

って崩れ落ち、両班の切端の距離は六メートル足らずにまで接近した。

しかし、根津、藤平はむろんのこと、両工事班の幹部技師たちは両切

端間の距離についてはかたく沈黙を守りつづけていた。設計にもとづ

く計算によればたしかに六メートル足らずではあっても、実際には多

少の食いちがいがあらわれるかも知れない。

それに、人夫たちにそのことを洩らしてしまうことは、掘進競争に好

ましくない結果をあたえるおそれがある。 作業の進行状況からみて

到底「鑿先をとる」ことができないと見きわをつけた工事班では、

落胆して意欲を失い、作業を投げ出してしまうことが考えられる。

なるべくかれらを盲目状態において、最後の一瞬までその力のすべて

をしぼり出させる必要があった。

ただかれらは、岩盤の奥からつたわってくる相手方の岩機の音に切端

が 接近しているこを察知しているらしく、かれらの動きにも一層はげ

しいものがあらわになってきていた。火薬係の人夫たちは、うがたれ

た孔に氷の棒をさし入れることも全くやめてしまっていた。

(185〜186p)

  

ダイナマイトに岩盤の高熱が伝わらないように、

氷の棒を差し入れていたのに、焦る人夫たちは、

その手間も惜しんでいたのでしょうね。

  

貫通祝いは、その日の午後一時におこなわれた。

仙人谷工事班の手で岩盤の中心部にダイナマイトが装填され、炸裂音

がとどろいて人が通れるほどの穴があけられた。

藤平には、再び胸にこみ上げるものがあった。加瀬組の後を引きつい

で岩盤に挑みはじめてから、すでに一年四カ月が経過している。阿曽

原谷横坑工事をふくめて九〇四メートルの隧道工事に、それほど多く

の日数を費したことは、藤平自身の経験では今までにないことだった。

が、世界でも稀有な温泉湧出地帯に道をうがつことができたというこ

とは、かれの自尊心を満すのに十分だった。

開かれた穴には清酒が注がれ、仙人谷工事斑の者たちと穴を通して杯

が交され乾杯した。

測定の結果、坑道の食いちがいは横に一七センチの誤差だけですんで

いることが確認できた。そのことは、根津や藤平にとって貫通の喜び

を一層大きなものにさせてくれた。

事務所内で鳴門工事部長、杉山専務をまじえて、あらためて貫通祝い

の杯が交された。鳴門は、根津をはじめ工事関係者の努力をたたえ、

現在掘進中の水路 道の貫通に全力をあげてくれるようにと激励した。

貫通後の慣習で、人夫たちには二日間の特別休暇があたえられた。か

れらは、宿舎の中で眠りつづけていた。

(194〜195p)

  

隧道を両方から掘削していって、たった17cmしかズレないなんて

すごいことだと思います。

貫通した時の祝杯がいい。

穴を通して杯が交わされ乾杯するんだ。

そして2日間のお休み。

貫通はやっぱり特別のことなんだよなあ。

  

  

藤平は、裏山の傾斜を見上げた。かれの口からも、意味のない叫びが

もれた。密生した橅(ぶな)の林に異常が起っていた。あたかもその

部分が人為的に伐りひらかれたように頂から傾斜の下まで七、八〇メ

ートルの幅で樹木の姿が消えている。

その光景が、なにを意味しているのかはあきらかだった。泡雪崩の爆

風が、橅の林の中を通り過ぎたのだ。それは、頂の方向からやってき

て巨大な橅の群れを鋭い刃先で切断し、橅は、大勢の射手が一斉に放

った矢の群れのように空中に舞い上り、宿舎目がけて突き刺さってき

たにちがいなかった。

木造の建築物は圧しつぶされ、それが各部屋に備えつけられた火鉢の

火で火災をひき起したものだと断定された。

(211〜212p)  

  

滅多に起きない泡雪崩(ほうなだれ)が、また襲ってきたのです。

1940年1月9日、阿曽原谷の飯場が、橅の大木に襲われました。

とにかく、こんな出来事があったことを知りませんでした。

知らない歴史は、たくさんあります。

  

吹雪はやんで、その夜は、一面の星空になった。

県警察部の係官の調査では、山の傾斜から舞い上った撫の巨木は、推

定三百本で宿舎から渓谷一帯に散乱していた。

宿舎に突き刺さっている橅(ぶな)は、すべて根が上方になっている

ことからも一旦舞い上ってから逆さまになり、梢(こずえ)の部分か

ら落下したと想像された。落下した橅は、平均して 径 七 〇センチ、

長さは二〇メートルで、ほとんどが六階から五階を貫き鉄筋コンクリ

ートの床にまで及んでいた。

(213〜214p)  

  

すごい威力です。自然の力は、人間の想像力を軽く超えてしまいます。

  

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