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2024年2月11日 (日)

本「高熱隧道」① 犠牲者が出た日電歩道

    

今日は令和6年2月11日。

  

この本を読みました。

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The 9th trail

「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)

   

昨年末頃から勉強を始めた黒部第三発電所関係の本です。

ダムと発電所を造るために、資材を運んだりするため、

ダムで貯水した水を発電所に送る水路のために、

トンネルを造らなければなりませんでした。

この本は、そのトンネル工事に関わった人たちの物語です。

しっかり調査して書かれた本で、

ノンフィクション作品に限りなく近いのではと思いました。

黒部第四ダムや発電所に注目が行きますが、

それより昔に、このような人間の営みがあったことを

う〜ん、思い知らされた気分です。

ここにも忘れてはいけない歴史がありました。

  

引用していきます。

   

富山聯隊では、その不祥事を陸軍省へ報告するため、かれら七名の事

故前の動きをひそかに調査した。それによれば、かれらは、聯隊の営

門を出ると富山市から宇奈月町に行き、昭和十一年六月日本電力の手

で開通された黒部鉄道の軌道車に乗って黒部川沿いにさかのぼり、小

屋を経て宇奈月から二〇四キロメートル上流に位置する軌道の終点欅

平(けやきだいら)まで行っている。そこから上流は、通行がきわめ

て危険なため一般乗客はその地点で引き返していたが、かれら将校た

ちは大胆にもさらに黒部渓谷の奥へと足をふみ入れた。

その欅平から上流仙人谷までの直線距離六キロメートル弱の険阻な黒

部渓谷には、黒部第三発電所の電源開発工事が積極的にすすめられて

いた。 仙人谷(せんにんだに)にダムを構築し、そこでせきとめられ

た貯水湖の水を水路トンネルで下流に送り、一挙に落水させて欅平の

発電所で八八、◯◯◯KWの電力を生み出そうという計画だった。そ

のため欅平から仙人谷にいたる峨々(がが)とそびえ立つ山塊に、水

路トンネル・ダム構築その他に必要な工事用資材を輸送する軌道トン

ネルの掘鑿(くっさく)がおこなわれていたのだ。

(7p)

  

視察に来た7人の軍人が、事故で亡くなる話から物語が始まります。

その際に、この工事のあらましが紹介されていました。

欅平、仙人谷は、よく物語に出てくる地名。

読み方を覚えておきたい。

   

かれら将校たちは、佐川組の請負っている軌道トンネル工事が世界

隧道工事史上きわめて特異な性格をもつものであることを、県内紙

の紹介記事から知っていた。その記事によると、隧道は温泉の湧出

する地帯を強引につらぬこうとするもので、坑内には熱い湯気が充

満 し 、一般の者はその熱さのために坑道の奥にまで達することは

到底できないほどだと説明されていた。 七人の青年将校たちは、

近々のうちに中国大陸の戦場へ派遣されることになっていたのだが、

内地での思い出の一つとして、特別にあたえられた休暇を隧道工事

の見学にあてようと企てたのだ。

(8p) 

   

トンネル工事を始める前に、すでに高熱の場所を掘削することは、

わかっていました。でも実際は、より高熱でした。

   

北アルプスの北半部にあたる黒部渓谷は、本州の中央部に位置してい

て、丁度細長い本州の南北から地殻的な圧力をうけているかのように

隆起現象にさらされ、それ自身の造山運動のはげしさに加えて夏の豪

雨洪水と冬の豪雪雪崩による地形の侵蝕によって、谷は深く崖は急峻

をきわめている。殊に欅平から上流は、道をつけようにもその足がか

りさえなく、猿やカモシカなどの野生動物もたどることはできない地

域であった。

しかし、日本の最多雨地帯でありその上十五分の一から二十分の一と

いう大きな河川勾配をもつ黒部渓谷は瀑布(ばくふ)の連続で、早く

から電源開発の最好適地として注目され、下流から徐徐に合計十箇の

ダムが構築されてきている。さらに欅平から上流の渓谷にもダム建設

の計画がきざして、その調査のために遠く大正七年夏にはすでに、電

力関係の調査班が地元の猟師の覚束(おぼつか)ない案内で初めて渓

谷の上流に足をふみ入れた。

(12〜13p)

  

黒部渓谷には、4つどころかたくさんのダムができていることが

この文章からわかります。

この続きで、黒部峡谷の断崖の道、日電歩道の説明になります。

  

かれらは、岩の割れ目や草木の根を唯一の足がかりとして黒部川左岸

沿いに瀕行し、四〇◯メートルにおよぶ岩壁をものり越えて立山方面

へぬけることに成功した。その折たどったルートを基礎に、 大正十三

年夏には測量用足がかり通路としてそのルートの改修をおこない、徐

々に通路を補修して測量班もしばしば谷に分け入ることが可能になっ

た。しかし、その日本電力歩道ー略称日電歩道は、やはり道という一

般的な概念からははるかに程遠いものがあった。

道といっても、その半ばは切り立った崖の岩肌をコの字型に刻みこん

だもので、その幅員もわずかに六〇センチほどしかない。その上至る

所に桟道と称するものがあって、ボルトを崖の中腹に打ちこみその上

に丸太をのせ、人間ひとりを辛うじて渡すことができるような箇所も

ある。また桟道も渡すことのできない場所には、丸太を六〇センチ間

隔で横たえただけ細々とした吊橋(つりばし)や、鎖で連結された梯

子(はしご)もかけられている。しかも、通路の下は一〇〇メートル

にもおよぶ切り立った崖が、深い渓谷に落ちこんでいるのである。

今後工事をおこなうためには、この道を何十往復、何百往復もしなけ

ればならない。 工事課長の藤平は、その危険な運搬作業のために、

黒部川下流沿いに散在した村落からボッカ(負荷)と称する山歩きに熟

達した強力一〇〇名を、倍の賃金を条件にかき集めた。そして、欅平

の急斜面をよじのぼり、日電歩道に足をふみ入れた。

ポッカたちの背負う荷の重量は平均して一人一三貫(五〇キロ弱)だっ

たが、貫あたりで賃金が計算されるのでかれらは競って重いものをか

つぎたがり、中には四〇貫(一五〇キロ)の機材の部品を背にしばりつ

けている者さえあった。

一行は、うねりくねった崖に刻まれたせまい通路を、岩壁に身をすり

つけるようにつたわって行く。下の渓谷には豊かな水量が飛沫をあげ

て走り、絶え間なくつづく瀑布が音を立てて深い滝壺に落下している。

顚落(てんらく)事故は、すでに第一回目の運搬作業から起った。そ

れは日電歩道入口から二キロほどの距離にある蜆坂谷を越えたあたり

で、崖下には滝が落ち、その水しぶきが舞い上って霧雨(きりさめ)

のように崖の岩壁をぬらしていた。

通路から消えたのは中年のボッカで、その男の肩に背負っていた骨材

の先端が通路に突き出た岩にあたり、滝の飛沫にぬれて滑りやすくな

っていた通路から男の体は骨材とともに八◯メートルほどの崖下に消

えたのだ。

すぐにロープがおろされ、崖下につたわり下りた人夫の手で男の体が

引き上げられたが、岩にあたりながら落ちたものらしく頭部はつぶれ

て歯列と眉毛が密着し、足の骨も横腹から突き出ていてほとんど原型

はとどめていなかった。そして布につつむため持ち上げると、全身の

骨格が粉々にくだけていて体中からきしむような音が一斉に湧いた。

その後もポッカたちの落事故はつづいて起ったが、運搬作業は強引に

つづけられ、ボッカたちに支払われる金額もそれにつれて増額されて

いった。

日本電力では、運搬作業の円滑化をはかるため加瀬組、佐川組に命じ

て六〇センチ幅の通路を一メートル幅までひろげる工事に着手させた。

さらにトンネルの岩肌をうがつ鑿岩機(さくがんき)の動力に必要な

電源を得るために、その通路に11000ボルトのケーブル(電纜/

でんらん)を突貫工事で埋設することを指令した。

すでに顚落死した者は十八名を数え、そのうち十二名は崖下の渓流に

のまれて遺体を収容することもできなかった。そして、新たにはじめ

られた通路の拡幅工事とケーブル敷設作業のために、落死する者は日

を追って多くなっていった。

(13〜15p)

  

日電歩道。

この文章を読んだだけでも、異常だと思います。

日電歩道をネットで調べましたが、

この小説で言う日電歩道は、どうも今は水平歩道と

呼ばれているようです。ややこしい。

欅平から仙人谷ダムまでの道のことだと思います。

  


YouTube: 【テント泊登山】断崖絶壁30kmの道、黒部峡谷の歴史を歩く|旧日電歩道-下ノ廊下-水平歩道

  

この動画の後半が日電歩道だと思います。

今は水平歩道と呼ばれるのかな。

また明日、考察してみます。

今日はおやすみなさい。  

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