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2024年2月

2024年2月13日 (火)

20240212御在所岳登山 MOOSEは「ヘラジカ」

   

今日は令和6年2月13日。

  

昨日の御在所岳登山の報告を書いています。

  

国見峠から、左折。

御在所岳方面を目指します。

 

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樹氷(霧氷のひとつ)が見られました。

何枚かアップで撮影しましたが、

寒中で、よく見えないスマホの画面でのピント合わせは難しく、

たくさん撮影を失敗しました。

  

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雪に負けずに、黒い葉がありました。

イワカガミでしょうか。

参考:驚くべき!イワカガミの越冬術

  

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歯ブラシのように樹氷ができていました。

  

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スキー場。ここがゴール地点です。

天気は良くありませんでしたが、賑やかでした。

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こんな景色を見ながら昼食。

今回は甘酒を持参。お湯を沸かして飲みました。

  

下山はアイゼン装着。

滑るのではとビビることなく、安心して足を置けました。

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どなたかの誕生日だったようです。

おめでとうおざいます。

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行きと違い、こんなに天気がよくなり、

暖かくなりました。

  

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この直方体の巨岩が気に留まりました。

  

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鈴鹿アルパインクラブによるプレート。

山で亡くなった方達が紹介されていました。

花は新しかったです。

  

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MOOSEはなんと読むのか気になりました。

MOOSE HP

「ムース」のようです。

MOOSEは「ヘラジカ」でした。

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https://bcny.blog/2023/05/04/moosevselk/

  

よく歩きました。

朝の7時15分スタート。

戻ってきたのが14時27分。

7時間ほど歩きました。

山じゃないと、こんなに歩けませんね。

  

猿を見かけた話を次の記事で書きます。

20240212御在所岳登山 国見峠まで

    

今日は令和6年2月13日。

  

書きたいことはたくさんあるけど、

ひとつひとつ、しっかり書いていこう。

その積み重ね。

  

昨日は2月2回目の登山でした。

三重県の御在所岳を登ってきました。

裏道コース。昨年は2月4日に登っています。

ここでも道草 20230204御在所岳を登ってきました(2023年2月4日投稿)

昨年は集合時刻に起きるという思い出の登山でした。

今回は大丈夫でした。5分前に到着。

  

昨年と比べて明らかに雪が少なかったです。

さすが暖冬。

でも山の上には雪があり、

雪があるところにはちゃんと雪があるんだと思いました。

  

写真を並べていきます。

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朝の雪で、山の木々は雪を載せていました。

  

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登山口。昨年もこの車はありました。

どういう車なのでしょう。

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橋は立派になっていました。

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藤内小屋。

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ビールなどが冷やしてありました。

冷たい水の中をプカプカ浮いています。

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太陽はなかなか雲の中から出てきてくれませんでした。

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この日も多くのロッククライマーが、

この藤内壁に向かったようです。

ヘルメットを所持して、足先に爪のあるアイゼンを履いているので、

よくわかります。

ちなみに、ここに名前のある北川みはるさんという方は、

有名な登山家だったそうです。

生きていたら、田部井淳子さんに匹敵するとか。

この北川さんのこと、そして藤内小屋については、

この本に詳しいようです。

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Amazonで見たところ、現在在庫切れとのこと。

入荷は未定。図書館にはないので、Amazonで注文。

忘れた頃に届くかな。

  

写真を続けます。

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裏道コースの8合目。国見峠です。

ねえ、暖冬とはいえ、雪があるところには雪があるでしょ。

別世界を楽しめました。

上に上がれば上がるほど、風が強まってきました。

  

登山後半は次の記事で。

















  

2024年2月11日 (日)

本「高熱隧道」① 犠牲者が出た日電歩道

    

今日は令和6年2月11日。

  

この本を読みました。

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The 9th trail

「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)

   

昨年末頃から勉強を始めた黒部第三発電所関係の本です。

ダムと発電所を造るために、資材を運んだりするため、

ダムで貯水した水を発電所に送る水路のために、

トンネルを造らなければなりませんでした。

この本は、そのトンネル工事に関わった人たちの物語です。

しっかり調査して書かれた本で、

ノンフィクション作品に限りなく近いのではと思いました。

黒部第四ダムや発電所に注目が行きますが、

それより昔に、このような人間の営みがあったことを

う〜ん、思い知らされた気分です。

ここにも忘れてはいけない歴史がありました。

  

引用していきます。

   

富山聯隊では、その不祥事を陸軍省へ報告するため、かれら七名の事

故前の動きをひそかに調査した。それによれば、かれらは、聯隊の営

門を出ると富山市から宇奈月町に行き、昭和十一年六月日本電力の手

で開通された黒部鉄道の軌道車に乗って黒部川沿いにさかのぼり、小

屋を経て宇奈月から二〇四キロメートル上流に位置する軌道の終点欅

平(けやきだいら)まで行っている。そこから上流は、通行がきわめ

て危険なため一般乗客はその地点で引き返していたが、かれら将校た

ちは大胆にもさらに黒部渓谷の奥へと足をふみ入れた。

その欅平から上流仙人谷までの直線距離六キロメートル弱の険阻な黒

部渓谷には、黒部第三発電所の電源開発工事が積極的にすすめられて

いた。 仙人谷(せんにんだに)にダムを構築し、そこでせきとめられ

た貯水湖の水を水路トンネルで下流に送り、一挙に落水させて欅平の

発電所で八八、◯◯◯KWの電力を生み出そうという計画だった。そ

のため欅平から仙人谷にいたる峨々(がが)とそびえ立つ山塊に、水

路トンネル・ダム構築その他に必要な工事用資材を輸送する軌道トン

ネルの掘鑿(くっさく)がおこなわれていたのだ。

(7p)

  

視察に来た7人の軍人が、事故で亡くなる話から物語が始まります。

その際に、この工事のあらましが紹介されていました。

欅平、仙人谷は、よく物語に出てくる地名。

読み方を覚えておきたい。

   

かれら将校たちは、佐川組の請負っている軌道トンネル工事が世界

隧道工事史上きわめて特異な性格をもつものであることを、県内紙

の紹介記事から知っていた。その記事によると、隧道は温泉の湧出

する地帯を強引につらぬこうとするもので、坑内には熱い湯気が充

満 し 、一般の者はその熱さのために坑道の奥にまで達することは

到底できないほどだと説明されていた。 七人の青年将校たちは、

近々のうちに中国大陸の戦場へ派遣されることになっていたのだが、

内地での思い出の一つとして、特別にあたえられた休暇を隧道工事

の見学にあてようと企てたのだ。

(8p) 

   

トンネル工事を始める前に、すでに高熱の場所を掘削することは、

わかっていました。でも実際は、より高熱でした。

   

北アルプスの北半部にあたる黒部渓谷は、本州の中央部に位置してい

て、丁度細長い本州の南北から地殻的な圧力をうけているかのように

隆起現象にさらされ、それ自身の造山運動のはげしさに加えて夏の豪

雨洪水と冬の豪雪雪崩による地形の侵蝕によって、谷は深く崖は急峻

をきわめている。殊に欅平から上流は、道をつけようにもその足がか

りさえなく、猿やカモシカなどの野生動物もたどることはできない地

域であった。

しかし、日本の最多雨地帯でありその上十五分の一から二十分の一と

いう大きな河川勾配をもつ黒部渓谷は瀑布(ばくふ)の連続で、早く

から電源開発の最好適地として注目され、下流から徐徐に合計十箇の

ダムが構築されてきている。さらに欅平から上流の渓谷にもダム建設

の計画がきざして、その調査のために遠く大正七年夏にはすでに、電

力関係の調査班が地元の猟師の覚束(おぼつか)ない案内で初めて渓

谷の上流に足をふみ入れた。

(12〜13p)

  

黒部渓谷には、4つどころかたくさんのダムができていることが

この文章からわかります。

この続きで、黒部峡谷の断崖の道、日電歩道の説明になります。

  

かれらは、岩の割れ目や草木の根を唯一の足がかりとして黒部川左岸

沿いに瀕行し、四〇◯メートルにおよぶ岩壁をものり越えて立山方面

へぬけることに成功した。その折たどったルートを基礎に、 大正十三

年夏には測量用足がかり通路としてそのルートの改修をおこない、徐

々に通路を補修して測量班もしばしば谷に分け入ることが可能になっ

た。しかし、その日本電力歩道ー略称日電歩道は、やはり道という一

般的な概念からははるかに程遠いものがあった。

道といっても、その半ばは切り立った崖の岩肌をコの字型に刻みこん

だもので、その幅員もわずかに六〇センチほどしかない。その上至る

所に桟道と称するものがあって、ボルトを崖の中腹に打ちこみその上

に丸太をのせ、人間ひとりを辛うじて渡すことができるような箇所も

ある。また桟道も渡すことのできない場所には、丸太を六〇センチ間

隔で横たえただけ細々とした吊橋(つりばし)や、鎖で連結された梯

子(はしご)もかけられている。しかも、通路の下は一〇〇メートル

にもおよぶ切り立った崖が、深い渓谷に落ちこんでいるのである。

今後工事をおこなうためには、この道を何十往復、何百往復もしなけ

ればならない。 工事課長の藤平は、その危険な運搬作業のために、

黒部川下流沿いに散在した村落からボッカ(負荷)と称する山歩きに熟

達した強力一〇〇名を、倍の賃金を条件にかき集めた。そして、欅平

の急斜面をよじのぼり、日電歩道に足をふみ入れた。

ポッカたちの背負う荷の重量は平均して一人一三貫(五〇キロ弱)だっ

たが、貫あたりで賃金が計算されるのでかれらは競って重いものをか

つぎたがり、中には四〇貫(一五〇キロ)の機材の部品を背にしばりつ

けている者さえあった。

一行は、うねりくねった崖に刻まれたせまい通路を、岩壁に身をすり

つけるようにつたわって行く。下の渓谷には豊かな水量が飛沫をあげ

て走り、絶え間なくつづく瀑布が音を立てて深い滝壺に落下している。

顚落(てんらく)事故は、すでに第一回目の運搬作業から起った。そ

れは日電歩道入口から二キロほどの距離にある蜆坂谷を越えたあたり

で、崖下には滝が落ち、その水しぶきが舞い上って霧雨(きりさめ)

のように崖の岩壁をぬらしていた。

通路から消えたのは中年のボッカで、その男の肩に背負っていた骨材

の先端が通路に突き出た岩にあたり、滝の飛沫にぬれて滑りやすくな

っていた通路から男の体は骨材とともに八◯メートルほどの崖下に消

えたのだ。

すぐにロープがおろされ、崖下につたわり下りた人夫の手で男の体が

引き上げられたが、岩にあたりながら落ちたものらしく頭部はつぶれ

て歯列と眉毛が密着し、足の骨も横腹から突き出ていてほとんど原型

はとどめていなかった。そして布につつむため持ち上げると、全身の

骨格が粉々にくだけていて体中からきしむような音が一斉に湧いた。

その後もポッカたちの落事故はつづいて起ったが、運搬作業は強引に

つづけられ、ボッカたちに支払われる金額もそれにつれて増額されて

いった。

日本電力では、運搬作業の円滑化をはかるため加瀬組、佐川組に命じ

て六〇センチ幅の通路を一メートル幅までひろげる工事に着手させた。

さらにトンネルの岩肌をうがつ鑿岩機(さくがんき)の動力に必要な

電源を得るために、その通路に11000ボルトのケーブル(電纜/

でんらん)を突貫工事で埋設することを指令した。

すでに顚落死した者は十八名を数え、そのうち十二名は崖下の渓流に

のまれて遺体を収容することもできなかった。そして、新たにはじめ

られた通路の拡幅工事とケーブル敷設作業のために、落死する者は日

を追って多くなっていった。

(13〜15p)

  

日電歩道。

この文章を読んだだけでも、異常だと思います。

日電歩道をネットで調べましたが、

この小説で言う日電歩道は、どうも今は水平歩道と

呼ばれているようです。ややこしい。

欅平から仙人谷ダムまでの道のことだと思います。

  


YouTube: 【テント泊登山】断崖絶壁30kmの道、黒部峡谷の歴史を歩く|旧日電歩道-下ノ廊下-水平歩道

  

この動画の後半が日電歩道だと思います。

今は水平歩道と呼ばれるのかな。

また明日、考察してみます。

今日はおやすみなさい。  

2024年2月10日 (土)

ブログのデザインを問い合わせたり、設定したり・・

   

今日は令和6年2月10日。

  

今日はサークルに出席。

12月16日〜今日までの期間のブログ120本ほどの記事から、

12本の記事を厳選して印刷。59枚の資料になってしまいました。

4人の会なので、236枚。

3時間のサークルの時間の半分を使って報告しました。

ちょっと多かったです。

  

このサークルで次のことがわかりました。

私のブログは、パソコンで見てもらったときには、

本来次のようなデザインになるはずでした。

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ところが、昨年から我が家のパソコン画面は次のようになっていました。

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なんとも味気ない画面です。

仕事でよく使うiPadの画面は、本来のデザインだったので、

我が家のパソコンの調子が悪いのかなと思っていました。

だいぶ年季が入ったパソコンなので。

ところが、今日、サークルで聞いたら、

皆さんの家でも、パソコンで見たら、

私のブログは、味気ないデザインの画面になっているそうです。

  

我が家だけでないことを知りました。

なぜだ?

  

そこでサークルから帰った今晩、ブログを経営している会社に

問い合わせのメールを打ちました。

なぜこうなったのか、どうやったら修正できるのか、

教えて欲しいという内容です。

いつも返事は早いので、三連休明けには返事が戻ってくると思います。

  

今晩、いろいろ設定のところをいろいろいじくっていたら、

ブログ内検索をつけれたり、「アーカイブ・もっと読む」を

表示できることがわかりました。

今日のサークルで、昔の記事を読むにはどうしたらいいの?

と、聞かれていました。ありがたいことです。

ブログ内検索と「アーカイブ・もっと見る」機能で、

その要望に応えられると思い設置してみました。

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ただ、「ここでも道草」内検索は、完璧ではないようです。

「トルーマン」で検索すると、昔の記事はピックアップされましたが、

最近の記事は無視されました。

検索窓も小さいです。

「アーカイブ・もっと読む」はいいです。

「もっと読む」を押すと、ブログを始めた

「2007年4月」までズラ〜と並びます。

昔の記事をたまには読んでみようかなってことができそうです。

  

  

私がお世話になっているブログの会社は、

シックス・アパート株式会社です。

ちょっと名前が気になる会社です。

また調べてみよう。

この名前のいわれ。

  

五社稲荷に昔、冷たい水のプールがあったとさ

   

今日は令和6年2月10日。

  

「豊川市の80年」(樹林舎)に懐かしい写真が載っていました。

加工して載せます。

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写真の下の文章を引用します。

  

五社稲荷社のプール

まだ川で遊ぶ子どもが多かった頃。小坂井周辺にプールはなく、

昭和30年頃に開園した際には、近辺(豊川、豊橋)から子ども

たちが集まった。井戸水を簡易水道から直接引きポンプで汲み上

げているため、プールの水はとても冷たくて、唇が紫色になるこ

とも。そんな時は甲羅干しで体を温めた。2日間は冷たさが残っ

たという。現在は駐車場になっている。

(小坂井町/昭和35年頃・提供=橋本仁史氏)

  

思い出します。

あの水の冷たさ。

井戸水だったからなんですね。

昭和36年生まれの私は、小学生の頃に行きました。

コンクリートで作られていたので、

ゴツゴツしていて、歩くと、足の裏が多少痛かったです。

先日、洗濯場踏切の件がきっかけで、

久々にお会いした先輩(9歳年上)も、

このプールの思い出を話していました。

その方は、当時豊橋在住。

友達と、まだ舗装されていない!国道1号線を

自転車で走って、五社稲荷のプールまで来たそうです。

  

現在、このプールはなく、駐車所です。

1月12日に撮影したものを載せます。

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駐車場の入り口付近に、古い石柱がありますが、

昭和30年頃の写真に写る石柱(青い矢印)かなと思ったけど、

ちょっと高さが違うようです。

  

若い人は、ここにプールがあったなんて思いもしないでしょうね。

家も増えたなあと思います。

  

小倉トーストの「極(きわみ)」を食べました

   

今日は令和6年2月10日。

  

前記事の続き。

幸田町の「ポム de なっぷる」に行った1月13日。

せっかく幸田町まで行くのだから、

小倉トーストの美味しい店はないか探しました。

  

ありましたよ。

特別の小倉トーストを食べさせてくれるお店が。

  

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「茶蔵(さくら)」です。

食べログ 茶蔵

このサイトで見つけてしまいました。

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「極(きわみ)」ですよ。

これはいいと思って、行きました、茶蔵へ。

ちなみにこれはモーニングではありません。

ランチメニューです。

したがって11時過ぎに、茶蔵に行きました。

注文しました。

ワクワクしました。

そして「小倉トースト 極」登場!

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食べログの写真よりも、グレードアップしているように思えました。

小豆がパンの上だけでなく、中層にもありました。

そしてアイスクリーム。

なんと贅沢な小倉トーストでしょう。

「極」が付くのも納得です。

  

ゆっくり味わって食べました。

満足。

 

こんなことも思いつきました。

もし、将来、私が病床に臥せって、

生死をさまよっている時に、

この「小倉トースト 極」を届けてほしいなあ。

きっと元気になります。

お見舞いには、ぜひ買ってきてください。

  

ちなみに店内はこんな感じ。

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古民家caffeということで、天井が高く、ゆったりした気持ちで

時間を過ごせる場所でした。

幸田町の「ポム de なっぷる」でりんご飴を買う

   

今日は令和6年2月10日。

  

先月の話を書きます。

  

この記事に関連します。

ここでも道草 長野県松川町の「なっぷる」のパンフレット(2024年1月9日投稿)

  

長野県松川町で「なっぷる」という品種ができたこと。

地元愛知県の幸田町に、

「信州りんご専門店 ポム de なっぷる」という店があること。

松川町のりんご業者の弟が経営しているお店であること。

そんなことを書きました。

  

幸田町のお店に行きたい、

「なっぷる」の命名理由を知りたいと思いました。

1月13日(土)に実行しました。

  

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これが「信州りんご専門店 ポム de なっぷる」です。

ここがHPです。ポム de なっぷる

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松川町のりんごの直販もやっているし、

地元の幸田町の大きなイチゴも売っていました。

やっぱり目が行くのはリンゴ飴です。

今日はこれを買おうと思っていました。

そのままだと食べにくいので、

カットしてもらいました。

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食べやすく、美味しかったですよ。

 

  

「なっぷる」という名前。

1月9日の記事で書きましたが、2説考えられました。

① 松川町と幸田町の兄弟の苗字は中平(なかひら)

 なかひらの「な」と「アップル」の合体。

② この品種のリンゴを食べた人が、「パイナップルみたいな味」と

 表現していました。

 「パイナップル」と「アップル」の合体。

 

奥さんと話していて、きっと②だろうねと言っていました。

りんご飴を買った時に、聞いてみました。

その結果、なんと①でした。

予想が外れました。

  

でも、こうやって実際に行って、

当事者から話を聞いて確かめる体験は楽しい。 


 

2024年2月 9日 (金)

タブレット端末で調べさせたい/正しいロゴマーク

   

今日は令和6年2月9日。

  

奥さんと娘が、今朝出発して、

1泊2日で旅行です。

2日間、私が1人、家の留守番。

滅多にない珍しいケース。

「うるさく言われないから、やっちゃうんでしょ」と

奥さんに言われました。

何を指すのか?

発信です。

ブログや電子回覧板です。

せっせと打っていると、

「そんなことばっかりやってるんだから」と呆れられます。

この2日間、やっちゃうかも。

  

  

子どもたちに、1人1台タブレット端末があるけど、

まだまだ十分に使いこなせているとは思えません。

関心のあること、疑問に思ったことなど、ネットで調べたら、

とっても楽しいと思うのですが、そのような使い方が少ないです。

  

何か調べたくなるようなものを提示して、

タブレット端末を使って調べる体験をさせたいです。

  

ぽっと浮かんだのは、ロゴマークです。

ふだん何気なく見ているいろいろなお店や会社のロゴマーク。

2つ並べて、どっちが本物と聞いたらどうだろう。

そんなのこっちだらと思いつつも、

確かめたくなるのではないでしょうか。

思いついたことの多くのことは、

ネット上で誰かがやっています。

これもネットのいいところ。

思いついたことを具体化できます。

  

ネット検索しました。

ほらあった。

知の種 常識クイズ 正しいロゴはどっち

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似たような動画はいろいろありましたが、

馴染みのないお店や会社のロゴが多くて適していませんでした。

この動画は、馴染みのあるロゴが多く、使えます。

 

ちなみに、この「知の種」HPにはいろいろなプリントがあって、

これからも利用できるものが多いです。

知の種 認知症予防脳トレ無料プリント

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残念ながら、今回のロゴクイズのプリントはないようなので、

映像の写真を撮って、自分でプリントを作る必要があります。

  

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以上、14問。

問題をプリントアウトして、黒板に貼って、

5人の子どもたちに、調べたいロゴを選ばせたいですね。

1人で2〜3問。

さあどうなるかな。

自動車会社のロゴは簡単でしたね。



































  

2024年2月 8日 (木)

「トルーマン大統領に学ぶ」を読む

   

今日は令和6年2月8日。

  

前記事の続きで、トルーマン大統領の話。

こんなサイトを見つけました。

ニッセイ基礎研究所 コラム トルーマン大統領に学ぶ

 

一方では「極悪非道の殺人犯」と言われるトルーマン大統領。

その大統領から学ぶという真逆の発想。

同じ人物なのに、亡くなってから50年余経って、

評価が分かれる大統領だと思いました。

  

このサイトの原爆に関する部分を引用します。

長いけど、いい文章なので、このブログに運んでおきたいと

思いました。

  

1945年8月、米国はわが国に開発したばかりの原爆を投下した。米国

でも、世界唯一の被爆国であるわが国でも、その理由や背景について

多数かつ多様な著述が出ているところである。概括するならば、

・原爆投下の代わりに日本の本土で地上戦を行った場合、多数の米国

 兵士の死傷が想定されたこと、

・共産圏拡大と日本への領土的野心を隠そうとしないソ連のスターリ

 ンに対し、米国の力を示す必要があったこと、

・莫大な予算と人員を費やして完成した原爆を交戦国に使用しないなら

 ば、議会に対し説明ができないと思われたこと、

・真珠湾攻撃や捕虜虐待などで日本を憎悪する米国民の感情を踏まえ、

 日本が受け入れ難くとも無条件降伏以外での戦争終結は難しかったこと、

などの要素が絡み合ってのものと論じられている。

原爆投下は当時在任であったトルーマン大統領の決定とされるが、公

式な投下決裁文書は存在しない。わずか3か月前の大統領就任後に開

発計画を知らされ、科学的知見も持たないトルーマン大統領が実質的

に決めたことがあるとすれば、組織の既定路線に乗る、ということだ

けであったであろう。トルーマン大統領は自らの回顧録で議会に二十

一カ条の教書を出した日を振り返り「1945年9月6日は、私が自力で

大統領の職務を担当し始めた象徴すべき日であった」と書いている。

特段の引継ぎもなく大統領に就任後、ドイツのポツダムに赴いてチャ

ーチルやスターリンと対峙するなど困難な環境に置かれた身として、

9月6日より前に自らの考えで動くことなどとてもできなかった7

あろう。

原爆による惨状が広く知られるにつれ、当時の高官の中には政治的思

惑もあって「原爆投下の必要はなかった」と述べる者たちが現れた。

しかしそれは時が経過してからのことであり、原爆投下時点において

米国政府内で反対意見は非常に少なかった8と言われている。

その一方、トルーマン大統領は終生、原爆投下の決定を正当であった

と述べて1972年、88歳で世を去った。それが本心であったかは本人

のみ知るところである。原爆投下の非人道性が強調されていく中、も

しかするとわが国の転勤族サラリーマンのように「あの話はオレが来

る前から決まってたんだ!」とでも言い訳したかったのかもしれない。

しかし組織のトップが正当でなかったと述べては原爆開発や投下に携

わった多くの米国民の立場もプライドもない。自らの決定として責任

をすべて背負って死んでいった平凡な男はリーダーの身の処し方を知

っていたのだろう。

7 半藤一利・湯川豊「原爆が落とされた日」(PHP文庫)364頁「戦

争のスケジュールは、かれらを容赦ない力で前におしやった。それは、

グローブス少将が回想録で描写したトルーマン大統領の姿が、象徴的

に語っているであろう。「大統領はその時点では、承認するもしない

もなかった。あたかもソリに乗った少年のようなものだった」かくて

原爆投下計画は政治上の問題の域を脱した。」

8 海軍のバード次官はトルーマン大統領に投下中止を進言したと伝わる。

  

原爆投下の理由の4点。

最後の米国民の感情を踏まえるというのは、

今まであまり考えたことがない説でした。

なるほど。

トルーマン大統領は、組織の既定路線に乗った説を

皆さんはどう思いますか。

既定路線に乗って、大きな被害を出したことに驚いて、

3発目の原爆を中止したようにも思えます。

でも最高責任者なので、「私は知らない」とは言えません。

そんなトルーマン大統領が浮かびます。

  

参考文献の「原爆が落とされた日」は気になりますね。

また図書館に予約してみます。

  

サークルがきっかけになって、

トルーマン大統領のことを勉強できてよかったです。

原爆とトルーマン大統領

   

今日は令和6年2月8日。

  

今度の土曜日にサークルがあります。

前回、サークルがあったのは、

1月21日でした。

その時に、「原爆投下はアメリカの汚点」というタイトルで、

A4サイズ8枚のレポートで報告された方がいました。

日本に2つの原爆が落とされたのは、

原爆投下に積極的だった当時大統領の

トルーマンの判断だったというものです。

戦争を早く終わらせ、多くのアメリカ人だけでなく、

多くの日本人の命を救うためにというのが、

原爆を落としたアメリカの理由になっています。

それもトルーマンが言ったことでした。

本当の理由を隠すための方便なのです。

原爆を落とさなくても、日本は降伏するつもりだったのです。

トルーマンは工作して、日本の降伏を遅らせてまでして、

トルーマンは、原爆を投下したかったのです。

さらにもう一人、原爆投下当時国務長官バーンズの名も出ました。

バーンズも投下に積極的でした。

戦後のアメリカが優位な立場に立てるように、

原爆投下を実行したのです。

「トルーマンとバーンズは、間違いなく極悪非道の殺人犯」と、

レポートに書かれていました。

参考文献は、「原爆 私たちは何も知らなかった」

(有馬哲夫著/新潮新書)です。2018年の本です。

  

  

この報告を聞いて、ずっと昔の記憶が浮かび上がってきました。

トルーマンは、実は投下には積極的ではなかった。

トルーマン以外に、積極的な人がいて、

その人が最終的に大統領の許可を得ずに、

原爆投下の最終命令を出した。

トルーマンは、自分が命令を出していないのに、

原爆が投下されたことを、船上で知って、

急遽、演説をした。

そんな記憶です。

どの資料を見たのか不明です。

  

土曜日のサークルの前に、ネットで調べておこうと思いました。

調べました。

そして突き止めました。

2016年8月6日に放映された番組を見ていたのです。

Img_4155

NHKスペシャル HP

「決断なき原爆投下〜米大統領 71年目の真実〜」です。

8年前にこの番組を見た時の記憶が、

蘇ってきたのだと確信しました。

調べたら、ちゃんと録画してありました。

でも動画でも見ることができました。


YouTube: 決断なき原爆投下

  

この番組で紹介されているトルーマン大統領は、

極悪非道の殺人犯ではなかったです。

原爆投下の中心人物は、原爆開発の指揮官、

陸軍のグローブス将軍でした。

この番組の中心は、1970年にグローブス元将軍に、

インタビューした音声が中心になっています。

このインタビューの3ヶ月後、グローブスは病死しています。

貴重なインタビューとなりました。

当時、グローブス将軍は焦っていました。

多額の資金を注ぎ込んで行われたマンハッタン計画。

そこでできた原子爆弾。

これを使わなければ、議会から糾弾されると考えたようです。

日本が降伏される前に、原爆投下をしたかったのは、

グローブス将軍でした。

Img_4156

トルーマン大統領は、原爆の目標は軍事施設だという考えでした。

グローブス将軍は、候補に「広島」を挙げ、

広島が軍事都市であると説明していました。

広島に原爆が落とされたことを、

ポツダムから戻る船上で聞いたトルーマン大統領は、

演説をします。

その中で、こう言っています。

Img_4157

広島が軍事都市であるという陸軍の説明を信じた演説です。

   

そして私が引っかかるのは、次のことです。

グローブス将軍が起草した原爆投下指令書。

Img_4158

内容は、具体的に投下地点が記されています。

Img_4159

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番組のナレーターが言います。

  

この原爆投下指令書をトルーマンが承認した事実を示した記録は

見つかっていません。

大統領の明確な決断がないまま投下されることになった原爆。

人類初の大量殺戮兵器の使用は、軍の主導で進められていきます。

  

グローブス将軍の構想では、17発の原爆を日本に落とすものでした。

想像を絶します。

2発の原爆投下による惨状を知ったトルーマン大統領は、

これ以上の原爆投下を中止する命令を出します。

グローブス将軍は、次のように言っています。

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トルーマン大統領によって、3発目の原爆投下は、

防がれたのです。

この番組では、バーンズ国務長官は出て来ませんでした。

逆にレポートには、グローブス将軍の名前は

出てきませんでした。
    

  

歴史の真実はどうなんでしょう?

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楽餓鬼

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