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2020年12月31日 (木)

「比ぶ者なき」② 初めての太上天皇(上皇)

   

今日は令和2年12月31日。

  

前記事に引き続き、

「比ぶ者なき」

(馳星周著/中公文庫)より。

  

立太子の儀がすぐに執り行われ、やがて、天皇が譲位の詔を発した。

朝堂は大いに揺れた。天皇が存命中の譲位はかつて、一度しか行われ

たことがない。軽の即位に反対する輩が、しきたりに反すると声を荒

げたが、天皇の意を覆すことなどできるはずもなかった。

(197p)

  

ここで言う「天皇」は持統天皇です。女性天皇でした。

「軽」は文武(もんむ)天皇です。

「一度しか行われたことがない」というのは、

645年に行われた皇極天皇から孝徳天皇への譲位です。

そして持統天皇は、初めて太上天皇(上皇)と呼ばれます。

 

200pに「太上天皇」が初登場しますが、

読み仮名がありませんでした。

おそらく「だじょうてんのう」「だいじょうてんのう」の

どちらかでしょう。

次の記事を思い出しました。

ここでも道草 「上皇」は「太上天皇」の略称(2017年5月8日投稿)

ここでも道草 「上皇」は略称だったんだ/今の「上皇」、以前の「上皇」(2019年6月15日投稿)

こういう機会に復習しました。

  

   

厩坂寺(うまやさかでら)は藤原氏の氏寺だった。父、鎌足が病に倒れ

た際、不比等の義母である鏡王女(かがみのおおきみ)が病平癒(へい

ゆ)のために山階(やましな)に寺を建立したのがはじめだ。壬申年の

乱の年に山階の寺は後の新益京にあたる厩坂に移され、厩坂寺と名を変

えた。

その厩坂寺を今度はこの平城京に移すのだ。

平城京は不比等が建てた藤原家の京である。藤原家の氏寺はそのことを

暗に示すはずだ。

「新しき名をお決めください」

「寺の名か。そうだな・・・・これはどうだ」

不比等は筆を取り、目の前にあった紙に字を書き込んだ。

興福寺ーーーー。

「よき名前にございます」

百枝が微笑んだ。

(400p)

   

こうして興福寺の名前ができたのですね。

ここでも道草 9月25日 奈良の空(2016年10月1日投稿)

2016年の9月25日に興福寺に行っています。

このような歴史は知りませんでした。

  

  

養老四年(720年)8月3日、右大臣正二位、藤原朝臣不比等が

薨(こう)じた。61年の生涯だった。

元正(げんしょう)天皇は不比等の死を深く悲しみ、後に、太政大

臣と正一位を追贈した。

首皇子が天皇になるのは不比等の死から4年後、安宿媛が皇后にな

るのは9年後だった。

その詳細は、また別の物語に委ねられることになる。

(573p)

   

これだけのことをした人が61歳だったのですね。

私はまだ元気で59歳。

せっかく生きているのだから頑張ろうと思いました。

父親が現在89歳。

自分もまだ30年生きれると思いたい。

   

  

首皇子が聖武天皇。

安宿媛が光明皇后。

 

歴史を教えてきたけど、また自分の理解が深まった本でした。

 

  

この本で気になった人が、不比等のライバルの一人である長屋王。

この人について詳しく知りたいと思いました。

またいずれ。

 

 

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