「学校の『当たり前』をやめてはいけない!」② 世の中や現実のほうが先行していてずっと広く深い
今日は令和2年6月23日。
前記事に引き続き
「学校の『当たり前』をやめてはいけない!
~現場から疑う教育改革~」(諏訪哲二著/現代書館)
のことを書いていきます。
引用します。
よくも悪くも伝統や習俗によって構築されてきた世の中の「当
たり前」はそんなに馬鹿にしたものではない。 すべてを個人の理
屈で判断するほうが危険である。理屈や理念で正当化(合理化)
できない「当たり前」は世の中にたくさんある。むしろ、理屈や
理念は事後的に人間が考え出したもので、世の中や現実のほうが
先行していてずっと広く深い。
(16p)
味わい深い・・繰り返して読むと、今までの体験が思い出され、
裏打ちされてきて、だんだんわかってくる文章です。
私は藤原和博さんのように、
1997年に「みんな一緒」の時代から
「それぞれ一人一人」の時代になったことに、
すぐには気づきませんでした。
※ここでも道草 「本を読む人だけ」① 「それぞれ一人一人」という時代に変わった(令和2年1月7日投稿)
学校が大きな破綻を引き起こさないで続いているのは、子どもは
学校を経由することによって一人前の社会人になるという「当たり
前」が信じられているからであろう。近代社会の人間は生まれや身
分に頼ることができず、オールラウンドに自立していなければなら
ず、その力は学校の学習と生活によって身につくという世の中の「
当たり前」だからである。
(18~19p)
この「当たり前」がまず大きい。
不登校で、フリースクールに通う子もいますが、
それもこの「当たり前」の範疇だと思います。
つづく
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