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2020年6月23日 (火)

「学校の『当たり前』をやめてはいけない!」③ 一時限一時限新たなり、日々新たなり

  

今日は令和2年6月23日。

  

前記事に引き続き

「学校の『当たり前』をやめてはいけない!

~現場から疑う教育改革~」(諏訪哲二著/現代書館)

のことを書いていきます。

  

今晩、もう少し引用します。

  

 ここでもうひとつ問題にしておかねばならないのは、「テクノ

ロジーの欠如」という教育現場の現実である。教育にはどんな教

師でも身につけさえすればいつでも役に立つ技術や方法は欠如し

ているということである。これもルーマンの言葉である。ふつう

の職場や生産工場だったら、経験を積み、年を取っていけばそれ

なりの職場のあり方や仕事のやり方や技術が身についていくもの

であろう。たとえば、熟練した旋盤工は経験を積み重ねて0.1

ミリの誤差もなく金属を削ることが可能である。教員世界のつき

合いの中で、そういう身過ぎ世過ぎの技術を身につけて、職員会

議で発言力を持つ人材はときどきいる。

 これも少しむずかしい表現で、子ども(生徒)はひとつの「自

己準拠(自己言及)システム」であるという言い方をする。子ど

も(生徒)は教えたことを素直に受け取ってくれるマシーンでは

なく、自身の考えや感覚でその内容を吟味し、受け取るか受け取

らないかを決断するシステムであるということである。こういう

存在に対してはいかに経験を積んだ教師でも、年数をもって教育

力を発揮することはできない。私はかねてよりそのことを「教師

は経験では食えない」と言い表してきた。教育には確かな方法や

技術がもともと存在しないからである。

 だから、あるとき、あるクラスでうまくいったやり方が、別の

クラスでは通用しない。この子にした説明はあの子にはわからな

い。ある年には成功したクラス運営や学年形成は、別の年度の生

徒には使えない。一時限一時限新たなり、日々新たなり、年々新

たなりの世界なのである。

(35p)

  

「教育技術の法則化運動」は私が勤める直前にスタートし、

それなりに勉強した身です。

教育技術の法則化はできると思っていました。

でも今は「一時限一時限新たなり、日々新たなり」

と思っています。

生徒の反応を見ながら、この方法はどうか、

こんな方法はどうだろうと四苦八苦しています。

   

   

 学校は確かに「共同社会」的であることは私も認める。だが、そ

れは学校が遅れているとか、近代化されていないということではな

い。学校や教育は「共同社会」的な地点から出発し、子ども(生徒)

の成長につれて「契約社会」的なものに徐々に変質していくという

展開になっているのである。「共同社会」的なものは簡単に言えば

本人が気がついたら所属させられていたというものであり(家族共

同体、学校共同体の前期、国家共同体、宗教共同体など)、「契約

社会」(市民社会)は個人の意思によって参画するものだが、学校

は最初から本人の意思によって入るものとは言えまい。

(130p)

   

(前略)いずれにしても、子どもは共同体(「共同社会」)から育

ってくるものだ。

(134p) 

 

 

この発想を文章で示されたのは初めて(?)です。

明日の行動は、最新情報に最も左右されます。

どう動こうか?

コメント

日々新たなり、教育現場の面白さでもあり、辛さでもあります。この前うまくいったことが次にうまくいくとは限らない、つくづく感じます。

そうなんですよね。
面白さと思える時は確かにありますね。
昨日やった社会科の授業は
アイデアが活きて、面白かったと思いました。
いくつになっても、授業はドキドキです。
もっとへっちゃらに慣れると思いましたが、
そうはいきませんでした。
土曜日ですが、来週のことをいろいろ考えています。

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