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2019年9月22日

2019年9月22日 (日)

20190917報告 再び鳳来寺山へ

  

今日は令和元年9月22日。

  

再び鳳来寺山へ行ってきました。

今回は階段を登って本殿へ。

そして前回に行かなかった東照宮で参拝してきました。

その時の写真です。

  

登山口。今回もいい雰囲気で迎えてくれました。☟

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傘すぎ。看板には樹齢800年とあります。☟

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その看板が作られたのが平成2年。

そうなると、樹齢は現在830年くらいでしょうか。

 

 

今回はここで休憩しました。☟

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50分ほどで本殿へ。

前回(9月11日)は蒸し暑い日で、ヘトヘトでしたが、

今回は涼しくて楽でした。

本殿裏手にある階段で、

前回から気になっていたものがありました。

「あれは、つぶれたヒルだったのか?」

確かめに行きました。

これです。☟

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これは種子ですね。

前回はヘトヘトでちらっとしか見ていませんでした。

今回はじっくり見ました。

ヒルではありませんでした。

ああよかった。

同じ新城市の明神山ではヒルがいると聞きました。

鳳来寺山に2回登りましたが、

今のところヒルに出合っていません。

☟ ここでヤマビルの勉強。

ヤマビル研究会

この動画もよかったら。ただし、虫が苦手な人はやめた方がいいです。

Photo

 

東照宮です。☟

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今回も森の中で、汗びっしょりになって、

フィトンチッドをしっかり吸ってきました。

「北へ行く旅人たち」その2/十津川郷士 囚人による開拓

  

今日は令和元年9月22日。

  

前投稿に引き続き

北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~

(川村たかし著/偕成社)より引用します。 

 

  

もう二十二、三年もまえ、官軍は京都から越後へ出て

長岡城を攻めた。北越戦争のそのとき、

十津川兵二百人が出撃したが、死傷は八十一人にたっした。

それほどの激戦だった。

十九歳だった壮一郎も刀をふりまわして戦ったひとりだ。

この家の留造(とめぞう)も輜重隊(しちょうたい)という

荷物はこびとして戦いにくわわっている。

ふたりともふしぎにかすり傷ひとつせずに生きのびた。

十津川郷士たちは、菱形の中に十の字をつけた旗印をつけていた。

はじめは丸に十の字だったが島津が同印なので、

同じ官軍の中ではまちがわれやすい。

朝廷のさしずで旗印をあらためた。

禁裏(きんり)から旗印をいただいたものもすくないことだろう。

天皇の近衛兵をもって任ずる〈菱十〉の集団は、

命しらずの戦いぶりをしたことになる。

(68p)

  

世の中には知らないことがたくさんあります。

それらを全て知ろうなどとは思いません。

それでも、出合った事象については、

噛みしめるように知ろうと思います。

十津川郷士についてはあまり知らないことでしたが、

この記述に出合ったので勉強しました。

Wikipedia 十津川郷士

壬申の乱、平治の乱でも出兵。南北朝時代には南朝側。

勤皇の人たちであり、戊辰戦争では官軍に加わりました。

菱十字をWikipediaから転載。

175pxtotsukawa_nara_chapter  

  

 

こうして十月十八日からはじまった移民は、

二十七日までのあいだに、つぎつぎと谷を出ていった。

はじめは二千六百九十一人が願書(ねがいしょ)をだしたが、

このとき出かけた者は六百戸、二千四百八十九人だった。

辞退する者があったからだ。

つづいてよく二十三年七月、四十戸、百七十八人が

北国をめざして海をこえた。

総計で二千六百六十七人が十津川をはなれたことになる。

これは村の人口のほぼ三分の一にあたる。

谷はにわかにさびれる。

(104p)

 

大水害に遭ってから、2カ月で移住が始まったわけです。

この決断は苦しかったとと想像します。

明治22年。西暦で1889年。

今から130年前の10月のことです。

  

  

この時期、月形(つきがた)村にある

樺戸(かばと)集治監(しゅうちかん)には、

二千四百人にちかい囚人が集められていた。

大正九年の獄舎が網走へうつっていくまでの五十年あまりのあいだ、

月形には日本最大の刑務所があったことになる。

中でも、この明治二十二年はもっとも人数がおおかった。

前年にくらべて、九百人がいっぺんにふえていた。

設備がととのったので、内地からぞくぞくとおくりこまれてきたのだ。

囚人は男ばかりで、石炭の採掘と道路の開通工事にしたがっていた。

(121p)

  

私にとって網走刑務所は有名ですが、

月形刑務所については全く知りませんでした。

囚人を労働力として、開拓に従事させている様子は、

この小説の中で多く描かれています。

  

道は雨がふるとたちまちぬかるみとなった。

排水工事までは手がまわらないせいだ。

雪どけはとくにひどかった。

補修がくりかえされた。

囚人たちは泥の中を、ときには腰までうまって杭をうち、

板をならべた。あまりに労働がはげしかったので、

あっけないほどもろく死んでいく。

中には逃亡する者もあったが、方向がわからず、

食べものもなくてにげきれなかった。

死んだあとには新しい囚人がおくられてきた。

北海道の開発はまず道をつけることからはじまったが、

その道はところによっては一メートルにひとりというほど

囚人たちの命をすいとっている。

(122p)

  

囚人の開拓の歴史にも興味をもちました。

小説「石狩川」「石狩平野」には書かれていなかった歴史です。

  

  

まちかねた入植の日が来た。(中略)

くじびきで割りあて地もきまっていた。

一戸あたり均等に一万五千坪(約五ヘクタール)。

アイヌ名でトックとよばれる樹海は、

無人のまま新十津川村と名づけられていた。

(168~169p)

  

Wikipedia 新十津川町によると、正式に新十津川村になったのは

明治35年のことです。

でもこの小説によると、明治23年にはあらかじめその村名が

ついていたようです。どうなんだろう?

  

  

以上で、「北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~」の引用終了。

最後に挿絵の写真を載せちゃいます。

鴇田幹(ときたかん)さんの絵です。

魅力的な絵です。

囚人の前田恭之助が、主人公の津田フキを

肩に載せて歩いているシーンです。177p

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「北へ行く旅人たち」その1/台風の被害で北海道移住を決意した人たち

今日は令和元年9月22日。

  

また北海道開拓に関する本を読みました。

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北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~

(川村たかし著/偕成社)

  

奈良県の十津川村が、明治22年に大水害に遭い、

多くの人命や家屋、畑、山林が失われました。

残された村人の3分の1が、新天地北海道に

移住をすることを決めます。

苦労の末に北海道に行きつき、仮住まいで冬を過ごします。

春になって、割り当てレれた場所での開墾がスタート。

そこはクマザサと樹木に覆われた場所でした。

移住者は少しずつ土地を切り開いていきました。

  

印象に残った文章を書き留めます。

  

明治22年8月18日~19日に十津川村には大雨が降りました。

Wikipeia 十津川水害によると、この大雨は台風のためでした。

登場人物は「天の池がこわれた」と表現していました。

台風という言葉は出てきません。

当時、台風が接近して風雨が強まるといった予報は

なかったかと思います。

水分を多く含んだ山は、次々に崩れ、崩れた土砂が川をせき止めて

湖を作りました。

その湖の水圧に負けて、せき止めていた土砂が崩れると、

土石流となって川下の人たちを襲っていました。

  

川津では、堰をきって流れだした神納(かんの川の水が、

いちじに鉄砲水になっておしよせてきた。

山香(やまか)直吉は流れにまきこまれて、家ごとはこびさられた。

グシャッと家がくだけたとき、妻や子どもはやっとのことで

裏山へはいあがった。にげににげた。

そのあとを水がぐんぐんせりあがった。

やっと増水がとまったので気がつくと主人のすがたがない。

直吉はだいじな書類をもちだそうとして、水にさらわれたのである。

巨大な新湖は赤土さながらふくれあがっている。

やっと水だとわかるのは、ところどころに流れがうずをまいているせいだ。

でなければ思わず足をふみこみそうになる赤い川であった。

妻も老父も腰をぬかして、ただぼんやり見まもるしかなかった。

何十という家いえの屋根や、おびただしい材木がただよっている。

たんすや机などもういている。

そのあちこちに、女や子どもがとりすがり、たすけをもとめていた。

川の中の男は水をくぐって岸に近づこうとしては、

やがて力つきてひっそりとした。

直吉の死体は三日後になって、二十メートルも高い山腹の岩かげで

発見された。

堤が切れた湖は、せめてものことに死体をそっとおいていった。

(56p)

  

平谷(ひらだに)もまたそういう支流からの水にあらわれた。

おなじように池も出現した。

下手にある猿飼(さるかい)では高さ四十メートルの湖が、

さらに下流の桑畑(くわばた)でもやっぱり新湖が

できてはくずれていった。

谷がひろくなっているとはいえ、上流のにわかづくりの湖が

くずれるたびに、ねとねとの泥水にのって材木や家が

おし流されてきた。

人間や獣の死体がぞくぞくとくだってきた。

ここではおし流された民家は六戸にとどまったが、

水につかったりほとんどこわれた家は百戸をこえる。

あたかもどぶにつかったような村を見おろしながら、

人びとは高いところへあがって、くりかえしくりかえし

はねとんでくるとほうもない鉄砲水に、ただ唖然としていた。

はじめの山くずれもだが、新湖の出現とその決壊という

二次災害がむごたらしさの幅をひろげていた。

(62p)

  

あとでわかったことだが、このとき一夜のうちに出現した

湖は三十七。

そのうちのいくつかは何年ものあいだ水をたたえていた。

小さな山くずれはかぞえきれず、幅五十間(約90メートル)を

こえる山津波は千八十か所をかぞえた。

家は全村の四分の一にあたる六百戸が、流されたりこわれたりした。

百六十八人が死んだ。

田畑にいたっては実に七十パーセントが消え去った。

十一の集落はけしとんであとかたもない。

(63p)

  

 

以前、十津川村に行ったことがあります。

その時に水害のことを聞いたことがあり、

新十津川村誕生のことも知っていました。

この小説をよみ、その歴史的なことを思い出し、

かつ、十津川村の中心街に行くまでに谷深い山道を

自動車で長く走ったことも思い出しました。

谷瀬(たにぜ)の吊り橋は、橋から谷底まで50m以上ありました。

Img_5483 十津川村観光協会HP

台風の被害が、歴史を作ったと言える出来事。

今年の台風15号も忘れられない台風となりました。

平成31年の100円玉が3つもあった

 

今日は令和元年9月22日。

  

財布の中にある100円玉が、いやにピカピカしているなと思って、

取り出して調べてみました。

何と、平成31年の100円玉が3枚もありました。

そして同じくらいに輝いていた平成30年の100円玉が1枚。

いつ財布に入って来た100円玉か、まったく覚えがありません。

写真に撮ってみました。

Rimg2054

Rimg2056  

平成31年の100円玉は、次のサイトによると約37万枚作られたそうです。

それがちょっと知りたい!

その他の枚数は以下の通り。

500玉は、約20万枚

50円は、約8万枚

10円は、約27万枚

5円は、約5万5千枚

1円は、約1000枚

  

注目は1円玉です。1000枚しか作られていません。

出合えたら幸運です。

 

とりあえず今回の4枚の100円玉は貯金箱に入れます。

私は5のつく日に500円以上の貯金をすることをしています。

毎年やっていて、お盆に開封。

家族にお小遣いとしておすそ分けしています。

まもなく25日なので、その日に貯金箱に入れておきます。

最近の写真

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楽餓鬼

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