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2019年3月24日 (日)

高倉健さんと鎌倉幕府滅亡との奇縁

 

今日は3月24日。

  

金曜日に再び襲ってきた腰痛。

土曜日、日曜日の午前まで激痛が続きましたが、

静養していたためか、日曜日の晩現在で、

痛みはかなり減りました。

前回同様、快復までに丸2日かかりました。

また明日からは、御仕事を頑張ろう。

腰痛を理由(言い訳)に、仕事を離れ、道草ばかりしてきました。

今晩もう1本道草して、明朝からは仕事だ!

  

  

最近、鎌倉幕府滅亡の話を書き、

北条高時等北条氏一族が菩提寺の東勝寺で

自刃する話を書きました。

ここでも道草 くじけない後醍醐天皇その2/討幕の発火点になった船上山(2019年2月28日投稿)

ここでも道草 BS歴史館最終回/尊氏が鎌倉幕府を裏切った決定打 六波羅探題跡(2019年3月5日投稿)

そして高倉健さんのことを書きました。

ここでも道草 今回も腰痛と高倉健さんのガッツポーズについて書きます(2019年3月13日投稿)

  

鎌倉幕府の滅亡と高倉健さんが最近揃いました。

そうなると、昔読んだ本を思い出しました。

高倉健さんが書いたエッセイ本です。

映画で演じている時とは違って、

お茶目な面のよく出たエッセイだったと思います。

その本の中で、高倉健さんの祖先が北条氏一族であって、

北条高時と最期をともにしたという話です。

もうだいぶ前に読んだ本です。

本の表紙はうっすら覚えていましたが、

本名は忘れてしまいました。

本棚で探しましたが、見つかりませんでした。

映像は捨てずに保管していますが、

書籍は、あっさり処分しています。

きっと捨ててしまったと思います。

でももう一度、高倉健さんの祖先の話を読みたいと思いました。

「たぐる」旅です。

参考:ここでも道草 「アイデアはどこから」その3/ちょっとしたことがスタートとなって・・「たぐる」(2019年1月21日投稿)

 

図書館のサイトで、高倉健さんの著作を調べました。

その中から、これかなと思う本をピックアップして

予約しました。

届いた本を見て、これだと思いました。

表紙に見覚えあり。

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amazon

あなたに褒められたくて」(高倉健著/集英社文庫)

  

本は図書館に返すので、少しここに引用しておきます。

  

高倉健さんは、萬屋錦之助さんに勧められて、

鎌倉にお墓を買います。鎌倉霊園と言います。

話はそこから・・・・  

この鎌倉霊園は宝戒寺さんのすぐ近くの墓地なのである。

宝戒寺といえば、ぼくの遠い祖先が、一族門葉(もんよう)のもの

八百余人とともに自害して果てた寺であること、

数年前、父の生家「小松屋」に残る古文書を読んでいて

知ったことを思い出した。

そこで、せっかく来たのだから、という軽い気持ちで、

宝戒寺の本堂から寺務所の方へ回ってみた。

ぼくの家の家系図の一番最初にあった名、

苅田式部大夫篤時(かつたしきぶのたいふあつとき)、

北条篤時の名前を言うと、住職は「あっ」という顔をされた。

それから、古い古い過去帳を出してこられて、

静かにめくってくださった。

北条篤時、苅田式部大夫篤時の名が、記されていた。

この宝戒寺はかつて、代々の北条当主の館、得宗屋敷の

あったところだという。

鎌倉幕府の執権として、幕政の実権を掌握した北条時政から

高時まで、十四代が住まいとした地である。

しかし、千三百三十三年(元弘三年)五月二十二日、

新田義貞の鎌倉攻めによって、そこは灰燼(かいじん)に帰した。

この日、高時以下一門のものは、得宗館の裏を流れる滑川を渡って、

葛西ヶ谷(かさいがやつ)を背にするすぐ近くの東勝寺へと移る。

ここは、三代執権、泰時の建立した父租代々北条氏の

菩提寺である。

まずは長崎高重が最初であった。

「はやはや御自害候(そうら)へ。高重先をつかまつって手本に

見せまゐらせ候はん」と、『太平記』は高重の爽快でさえある

自害の様子を描いている。

『太平記』に、「血は流れて大地にあふれ、

漫々として洪河(こうが)の如くなれば、屍(かばね)は

行路に横って累々たる郊原(こうげん)の如し。

死骸は焼けて見えねども、後に名字を尋ねれば、この一所にて

死する者、すべて八百七十余人なり」と描写されるところである。

宝戒寺は、この高時以下の怨霊弔祭(おんりょうちょうさい)のために

建武二年(千三百三十五年)、後醍醐天皇が開基となり、

足利尊氏に命じて、小野亭と呼ばれた得宗館跡へ建立したのだそうだ。

ご住職はひととおりお話しになると、その北条氏終焉の地、

東勝寺のあったところへ案内してくださった。

宝戒寺から歩いて数分のそこには、高時腹切りやぐらといわれる、

鎌倉特有の横穴式の墓穴があった。

薄暗いその中をのぞくと、小さな石を積んだだけの苔むした塔が

一基、立っていた。

これが百四十年にわたる鎌倉幕府の最後を見届けた

高時一門の墓なのか、と足が立ちすくむ思いがした。

ショックだった。

(69~71p)

  

  

篤時には子供がいた。

その子供は篤時とともに自害をすることなく、

鎌倉の地をのがれて、ひたすらに西を目指す。

逃げて、逃げて、岡山まで逃げのびた。そして山口へ。

山口では大内氏につかえたと伝えらえる。

しかし、その大内氏が幕府と対立、和泉国堺で敗死する。

篤時の子はさらに西へ向かい、北九州の地に逃げのびる。

そのとき、七歳、四歳、三歳の三人の子と

老臣を一人伴っての逃避行であったと、記録に残されている。

北九州の地は、彼らにとって安住の地であったようだ。

やがて両替商を営み、小松屋の屋号で知られるようになる。

(中略)

のちに筑前国黒田藩主から名字帯刀を許されて、

小田姓を名乗る。

(74~75p)

 

高倉健さんの本名は小田剛一(おだごういち)。

小田は父方の祖先だそうです。

 

 

大河ドラマ「太平記」が1991年1月から

1年間放映されました。

6月2日放映の第22話「鎌倉炎上」だけ

ビデオテープに録画してとってあります。

もう30年近くも前のドラマなのに、

北条氏一族の自刃シーンは忘れられません。

片岡鶴太郎さん演じる北条高時、

フランキー堺さん演じる長崎円喜、

児玉清さん演じる金沢貞顕などなど印象に残っています。

  

この大河ドラマを見て、がぜん鎌倉幕府滅亡に関心が高まり、

当時の私はいろいろ調べ始めていたと思います。

当時の社会科通信にも記事を書いていたと思います。

 

高倉健さんのこの本の出版(第1刷)が1993年とありました。

おそらく予備知識がついた時点で読んだので、

イメージを浮かべながら読むことができ、

さらに高倉健さんと鎌倉幕府滅亡の奇縁に驚いて

印象に残ったと思います。

ちなみに「鎌倉炎上」は、

Youtubeで現時点では見ることができました。

大河ドラマ「太平記 第22話 鎌倉炎上」

 

「たぐる」旅をしました。

何と30年近く前までたぐることができました。

  

  

  

3月22日にNHKBSシネマで高倉健さんの遺作となった

映画「あなたへ」が放映されていました。

もちろん録画しました。

時間を見つけてまた見たいです。

038dc06723fcb8312a436d47ea925bd4 ダウンワード・パラダイス

2012年8月公開映画。

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