くじけない後醍醐天皇その2/討幕の発火点になった船上山
今日は2月28日。
今年の2月最終日。もう1本書きたい。
2011年2月2日放映の
「歴史秘話ヒストリア 折れない、負けない、くじけない
~風雲!後醍醐天皇がゆく~」より。
隠岐に流された後醍醐天皇が、隠岐を脱出したところから。
ナレーター:船に乗った後醍醐天皇は、数日で伯耆の国、
今の鳥取県西部の沿岸に到着しました。
そこで天皇を迎えたのが、地元の武士
名和長年でした。
名和長年も楠木正成と同様、幕府北条氏の支配に
苦しんでいたと思われる地方の武士の頭領です。
後醍醐天皇をかくまった名和長年。
そこに幕府の軍勢3000余りが攻め寄せます。
名和軍はおよそ20分の1の150人ほど。
とても勝てそうにありません。
しかし、名和長年たちは、まさかの戦いぶりを示します。
後醍醐天皇と名和軍が陣取ったのは、
ここ船上山(せんじょうさん)という山でした。
険しい崖がそそり立つ船上山は、まさに難攻不落の要害。
名和長年たちは、勝手知ったるこの山の険しさを武器に、
幕府の大群に抵抗し続けました。
船上山では今も、名和軍の戦いぶりをうかがうことができます。
松岡さん:こういう石をですね、投げて、戦ったというふうに
聞いてますけどね。
春の山焼きでですね、この草原を焼いた後にですね、
やはりこういう石がたくさんありますんで、
戦いの名残り(があります)。
(こうやって幕府を)撃退したと言い伝えられています。
ナレーター:こうして名和軍が頑強に抵抗を続けているうちに、
突然流れが変わります。
天皇を守る軍勢が、幕府相手に善戦している。
これを知った近隣の武士たちが、次々に味方に駆け付けたと
言われます。
その変化は、わずか二月で全国に波及。
幕府の有力な武将足利尊氏が天皇方に加わり、京の都を攻略。
幕府に不満をもつ武士たちは続々と寝返り、
鎌倉の北条氏をいっきに滅ぼしてしまったのです。
ラスト4枚の写真で表現されている、
船上山から討幕の動きが波及する様子は
とてもわかりやすかったです。
波及の様子をもう少し詳しく調べてみました。
船上山での挙兵は1333年閏2月28日。(参考:Wikipedia)
足利尊氏が鎌倉幕府を裏切って、京を攻めたのが同年5月7日。
(参考:今日は何の日?徒然日記)
新田義貞に攻められて北条高時が自刃。鎌倉幕府が滅亡したのが
同年5月22日。(参考:鎌倉手帳)
参考にしたサイトがバラバラなので、正確ではないかもしれませんが、
およそはわかると思います。
今日(2月28日)、船上山で挙兵したら、
5月には鎌倉幕府が滅亡したのです。
今とは交通機関、通信手段が未発達な時代としては、
異例のスピードで討幕の動きは広がったと予想されます。
討幕の発火点になった船上山。
登ってみたいなあ。
そして戦いの名残の石を見てみたい。
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