「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その4
今日は9月15日。
9月12日の投稿の続きで、
「天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。
田部さんが華々しく活躍した時の一つが、
1935年(昭和10年)の東京巨人軍アメリカ遠征です。
たとえば・・・
10回表、(一番)田部は外角を巧く流してライト前ヒットで出塁。
初球、田部はいきなり走った。
脱兎(だっと)のごとく走り二塁ベースに滑り込んだ。
二番の矢島は左打者である。
そのために相手バッテリーはまさか田部が三盗はしないだろうと思った。
だが、田部は巧みにリードを取って三塁を陥れた。
隼のごとく三塁に滑り込んだのだ。
矢島の第四球目、本塁の砂煙が舞い上がった。
田部の姿が煙の中から出てきた。
猛烈な拍手が起きた。
試合は結局巨人軍が9対5で勝利した。
田部はヒットだろうが四球だろうが、
一塁べース上に立てば後は一人でホームに帰ってくる。
もし、田部がヒットを放ったところでトイレに立った客がいれば、
席に戻ってみるとスコアボードに1点が掲示されているのを
眺めて怪しむに相違ない。
なぜなら、矢島がそのままバッターボックスにいるからである。
投手がたった四球の球数を投げるあいだに
ベースを一巡してしまう走者がいようとは
誰が想像したであろうか。
不思議な現象に遭遇し頭が混乱しただろう。
だが、田部の快足を知れば納得するであろうし、
同時に塁間を駆け巡りホームスチールを見られなかったことを
悔しがるにちがいない。
(146~147p)
こんな具合です。109試合で105盗塁を記録しました。
Wikipediaには次のように書いてありました。
本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ
「田部がスチールできないのは一塁だけだ」と、
アメリカ人を驚かせ「タビー」と呼ばれた。
痛快じゃないですか。
アメリカ遠征時の映像と思われる動画がありました。
和数字の背番号「三」を背負った田部さんが映っていました↓
(昭和15年)首位打者は最後まで川上(哲治)と争った
鬼頭数雄(中京商業)が獲得した。
鬼頭は快足を活かしセーフティーバンドを決めるなど、
好打で川上に競り勝った。
鬼頭は打率・321の結果を残し首位打者の栄冠を手にした。
鬼頭は中京商業夏の甲子園三連覇のメンバーである。
その後、日大で活躍した。
その鬼頭も太平洋戦争が始まると応召(おうしょう)され、
歩兵第135連隊陸軍兵長として激戦のサイパンに従軍し
消息を絶った。
米軍の猛爆撃のさなか消えたのである。
(193p)
私が子どもの頃に野球に夢中だったときは、
巨人軍、川上監督、王貞治選手、長嶋茂雄選手が、
プロ野球の中心でした。
川上監督が昭和15年に首位打者を争った鬼頭選手。
注目したい。
(ちなみに昭和14年、16年に川上選手が
首位打者になっています。)
地元愛知県勢が夏の高校野球で3連覇していて、
それが中京商業であることは子どもの頃から知っていました。
昭和6年~8年のことでした。
そのチームにいたのが鬼頭選手でした。
名古屋市生まれ。
この人の特徴の一つに、左利きの2塁手だったことがあるようです。
※参考:鬼頭数雄:左利きの内野手
今に至るも、左利きの2塁手は珍しいようです。
上記サイトによると、鬼頭選手が戦死したのは、
マリアナ諸島沖とあります。
サイパン島はマリアナ諸島の一つ。
サイパン島に向かう移動中に亡くなったのか?
サイパン島での戦いは1944年6月15日から7月9日。
鬼頭選手が亡くなったのは1944年7月となっていて、
日にちは不明。
もう少し詳しく書いたサイトはないか調べました。
このサイトがよかった↓
首位打者争い、戦死のことが詳しかったです。一部引用。
鬼頭と川上の首位打者争いがあったのは昭和15年のことだ。
この年のリーグ打率は2割0分6厘、チーム打率1位の巨人は2割3分7厘
という数字が如実に物語る通り、稀に見る「投高打低」のシーズンで、
一説によれば「最も粗悪なボール」を使ったとされる。
戦時下体制の影響から、連盟規定に沿う正規の使用球を作製できず、
使い古したボールや質の悪い代替品で作ったボールを用いて
公式戦をおこなっていたのだ。
このような状況下にありながら、鬼頭と川上は
シーズンを通して打率3割台を維持し続けた。
シーズン開幕の3月から対決の火ぶたが切られた。
中盤戦を終えた8月までの成績は、1位・鬼頭の3割2分4厘9毛に対し、
2位・川上は3割2分4厘6毛と、たったの3毛差。
球史初の〝厘〟と〝毛〟の差を争う死闘を展開、
川上をして「いっそのこと軍隊に入ったほうがマシだ」と
言わしめたほど熾烈を極めた。
そして、抜きつ抜かれつの大熱戦の末、
鬼頭が首位打者のタイトルを掌中に収めた。
だが、今日に至るまで「打撃の神様」に勝利した実績は語り継がれず、
歴史の影に埋もれたままである。
昭和17年2月、歩兵第18連隊第7中隊に入営し、
その後は歩兵第135連隊に配属。
昭和19年7月、マリアナ諸島サイパン島に消息を絶つ。
白木の箱には「鬼頭数雄」と書かれた、
薄くて小さい木板が1枚だけ入っていたという。
歴史の影に隠れて私には見えていなかった鬼頭選手を、
「天才野球人 田部武雄」を読んだことで、
日の当たる場所に引っ張り出すことができました。
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