「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その5
今日は9月16日。
前投稿の続きで、
「天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。
田部さんは沖縄戦で戦死しました。
現場は摩文仁の丘。
その最期の様子を書いた文章を引用します。
田部の部隊は、海岸まで追い詰められていた。(中略)
後方から米軍歩兵と戦車軍が迫ってくる。
海からは哨戒艇の攻撃が容赦なく行われた。
万事休す。
田部は完全に追い詰められ、もはやこれまでと思った。
(215p)
海は哨戒艇で埋まっているが、波の音は穏やかだった。
ゆっくりと奏でられる静かな波音が田部の記憶を蘇らせた。
やがて、その音は球場の歓声のようにも聞こえてきた。
田部は死を覚悟していた。
だが、もう一度人生最後の盗塁を決めてやろうと思った。
かつて、アメリカの観衆はスピード満点の田部の俊敏無比の
韋駄天ぶりに驚き、興奮し熱狂した。
そして、そのスリリングな走塁へ惜しみない拍手を送った。
アメリカ女性からも方々でサインを求められた。
もしかしたら、敵の米兵のなかにも、かつて球場で
田部の快足を見た者がいるかもしれない。
今一度、己の健脚を見せてやる。
そう思うと老兵は、一瞬、軽く目を閉じた。
アメリカの青い空が浮かんだ。
果てしなく広がる紺碧の空、思い出は美しい。
「タビー・ストロング・ベース」
アメリカ人は田部をこう呼んだのだ。
田部は海岸に向かって走り出した。
かつてアメリカの広大な大地を走りまくった頃の
自分に戻っていた。
アメリカの青空の下でおもしろいように盗塁を決めた。
二盗、三盗、ホームスチールと、小兵の田部は
大男揃いのアメリカ内野手のあいだを俊敏無比の
疾風の如くくぐり抜けたのである。
我が野球人生に悔い無し。田部は走った。
日米の野球ファンを魅了した生涯最後のベースランニングである。
猛然とダッシュした。加速がつく。
脚力はいささかの衰えもない。
機関銃の火のような掃射を巧みにかわした。
まずは二盗に成功。次は三塁だ。
田部は二盗よりも三盗を得意としていた。
田部は三塁も陥れた。最後は本塁である。
田部は人生の締めくくりをホームスチールで決めてやろうと思った。
「タビー、ホーム、ホーム」という歓声が聞こえてきた。
投手の足が上がった瞬間、田部はさらに加速し一気に駆け抜けた。
摩文仁海岸には紺青の海が広がっていた。
日本野球界、希代の天才野球児・田部武雄は、
穏やかな平和の時代を求め、静かに消えて行った。
(215~216p)
田部さんがアメリカ遠征で活躍したのが、
1935年(昭和10年)のこと。
そして、戦死したのが10年後の1945年6月。
(日にちは不明)
たった10年で、アメリカ人の歓声を受けていた田部さんが、
アメリカ兵の撃つ機銃掃射で命を落としました。
摩文仁で追い詰められた時に、田部さんはどう思ったでしょうか。
今自分に起こっている現実を、現実と思っていたのでしょうか。
あのアメリカを憎しとは思っていなかったと思います。
なぜこんなことになってしまったのだと思い、
悪夢と思いたかったろうなと思います。
本の著者は田部さんのことを「薄幸」と書いていました。
活躍するのですが、「優勝」に縁が少なかった田部さん。
田部さんがそのチームを離れると「優勝」が来ていました。
巨人を解雇され、プロ野球から追放されてしまった田部さん。
そして奥さんの子どもを残しての戦死。
やっぱり無念だっただろうなあ。
全く知らなかった田部武雄さんの人生を知りました。
ここに書きとめることができました。
今も日本で盛り上がっている野球の歴史には、
このような野球人がいたのですね。
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