「仏像ミステリー 運慶とは何者か?」その1/無著・世親菩薩立像
今日は1月14日。
昨年10月7日放映の番組「NHKドキュメンタリー 仏像ミステリー
運慶とは何者か?」を見ました。
今回も1月7日に書いたように、
テレビ番組を読み物に変換することをやってみます。
1300年の歴史を誇る奈良の興福寺。
興福寺の北円堂。
ふだん一般に公開されていない北円堂内部を見せてもらいました。
中央に位置するのが、国宝「弥勒如来坐像(みろくにょらいざぞう)」
運慶作。ナレーターの説明を聞き書きします。
ナレーター:「弥勒」は、遠い未来に地上に現れ、人々を救うとされる仏。
法相宗(ほっそうしゅう)と呼ばれる興福寺の宗派で大切にされている。
その弥勒菩薩坐像の両脇にあるのが、運慶の最高傑作と呼ばれる
「無著菩薩立像(むじゃくぼさつりゅうぞう)」(向かって右)
「世親菩薩立像(せしんぼさつりゅうぞう)(向かって左)です。
番組では、この2つの仏像の紹介に冒頭から時間をかけていました。
ナレーターの説明を聞き書きします。
ナレーター:2人は弥勒の教えを大成させた兄弟の僧侶だ。
弥勒如来に向かって右に立つのが兄の無著。
古代インドに実在した2人を、運慶は身近な日本人のような風貌にして
訪れた者がその教えを受けとめやすくした。
年老いた無著は、人々を慈しみ、見守る姿に造った。
弥勒如来に向かって左に立つのが弟の世親。
両手に動きをつくり、指を深く曲げ、確固たる意志で
悟りを求めている。
仏の教えを大切にする心。
運慶はそれを無著と世親の姿を借りて、語りかけたのだ。
「仏像愛好の集」 の コミュニティ 掲示板的な 孤思庵ブログ
左が世親、右が無著。
2つの仏像の目は玉眼と呼ばれる技法で造られたものです。
まるで生きていてこちらを見ているような眼になっています。
ナレーターの説明は続きます。
ナレーター:運慶が生まれのは平安時代末期の奈良。
興福寺を拠点とする仏師集団の跡取りとして、
注文に応じて工房で仏像を製作していた。
運慶が30代の頃、大変なことが起きた。
当時、全盛を誇っていた平氏と興福寺をはじめとする奈良の僧侶たちが衝突。
平氏は、興福寺や東大寺に火をかけて焼き尽くした。
いわゆる「南都焼討(なんとやきうち)」である。
運慶たち仏師は、立ち直ろうと、興福寺の復興に乗り出した。
まず手掛けたのは、かつての西金堂(さいこんどう)の本尊、釈迦如来像。
運慶がリーダーとなって造ったと記録されている。
現在(釈迦如来像の)一部しか残っていないが、
頭部だけでも高さは約1m。
巨大な仏像だったことが、推測される。
それから、およそ30年かけて行われた興福寺の復興事業。
その最後に造られたお堂が、北円堂だった。
北円堂を任されたのは、十分に経験を積み、円熟期に入った運慶。
長い歳月を費やし、数々の仏像を造った。
中でも力を注いだのが、無著と世親だと考えられている。
病院の待合室で出会った本「永久保存版 運慶完全カタログ」(「サライ」~小学館~
2017年10月号別冊付録)には、2体の仏像についてこう書いてありました。
※参考:ここでも道草 病院の待合室で「運慶」の作品に出会う(2017年11月8日投稿)
【無著菩薩立像】
5世紀頃のインドに実存した無著は、
弟の世親とともに法相宗の教理を大成した学僧。
憂いを帯びた視線が、崇高な理念を叶えんとする深い精神性を物語る。
【世親菩薩立像】
眉根を寄せて遠くを凝視する世親の表情には、
憂いを帯びた無著とはまた異なる強い意志を感じる。
未来を見据えたかのような眼差しの表情に
玉眼が一役買っている。
いつか生で見ることになったら、この記事を見てからにしよう。
2体の表情はリアルで素晴らしい。
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