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2015年4月12日

2015年4月12日 (日)

4月12日 ナシの花撮影/2015年山が笑った日

  

今日は4月12日。

  

ちょくちょくテレビ番組を見ていましたが、ここへの記録がなかったので、

今回の投稿の末尾にまとめて書いておきます。

  

昨日は久々に墓参りに行きました。

父親と娘と3人で行きました。

その時に、梨(ナシ)の花を撮影に行きました。

  

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まだ間に合いました。

梨(ナシ)の花の白さがいいなあ。

  

  

お墓のある場所からの撮影↓

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山が笑っていると思いました。

2015年4月11日が山が笑った日として認定したいと思います。

  

過去の「山が笑った日」です。

 

平成17年 4月21日

平成18年 4月21日

平成19年 特定できず

平成20年 4月19日

平成21年 4月10日

平成22年 4月14日

平成23年 4月18日

平成24年 4月16日

平成25年 4月 8日

平成26年 4月10日

平成27年 4月11日

  

娘に他の季節はどういうの?

と質問されて即答できませんでした。

過去に2回書いています。

ここでも道草 「春山淡冶(たんや)にして笑うが如し」(2009年4月23日投稿)

ここでも道草 山の四季の表情を復習(2012年4月22日投稿)

もう一度書くぞ。

春・・・山笑う

夏・・・山滴る(したたる)

秋・・・山装う/山粧う(よそおう)

冬・・・山眠る

 

なかなか覚えられませんね。

 

  

  

〇4月5日視聴 大河ドラマ「花燃ゆ 14 さらば青春」(4月5日放映)

 吉田松陰 久坂玄瑞 高杉晋作

〇4月5日視聴 「世界ふしぎ発見 日本初 ピラミッド登頂 201段全段計測」

 (2015年3月14日放映)

 竹内 海南江 クフ王 ピラミッド 考古学者 河江肖剰(ゆきのり) 

〇4月9日視聴 「ニュースウオッチ9」「NEWS23」・・ペリリュー島慰霊ニュース

 (2015年4月9日放映)

〇4月10日視聴 ドラマ「かぶき者慶次 ①」(2015年4月9日放映)

 前田慶次

〇4月11日視聴 「知恵泉 世界を変える発信力 ジャーナリスト 石橋湛山」

 (2014年10月14日放映)

〇4月11日視聴 「探Q!Aトリップ 豊橋」(2015年4月4日放映)

 市電 ウズラの卵 手筒花火 豊橋筆

ペリリュー島に関するニュース7/倉田さんの涙

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

4月9日放映の「NEWS23」(CBCテレビ)の聞き書きです。

「NEWS23」でも倉田洋二さんが紹介されました。

  

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倉田洋二さん。アンガウル島からの数少ない生還者だ。

島での戦いは1ヶ月にも及び、最後には日本兵のほとんどが、

爆弾を抱えて突撃。

およそ1200人が亡くなった。

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だが倉田さんは、洞窟に残った。

  

(倉田さん)「左半身動けなかったもので、『お前残って自決しろ』と言われて

    手榴弾1発ですよ。」

  

洞窟に残され暮らしていた時に、目の当たりにしていた光景が、

今でも忘れられない。

  

(倉田さん)「焼けた木かと思って行ってみるとね、そうじゃないんです」

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   「ハエなんです。ハエが羽化する寸前なんです」「真っ黒く」

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   「その下には必ず戦友がいるんですよ」「真っ黒ですよね」

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(倉田さん)「遺骨をなんとかしてもらいたいですね」

   「陛下のため、国のためで、みんな死んでますからね。」

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今日(9日)倉田さんは、アンガウル島で亡くなったおよそ1200人の

戦死者名簿を持ち、両陛下と言葉を交わした。

  

(倉田さん)「言いたいことはたくさんあったんですけど、

    胸が詰まって言えませんでした。」

   「来ていただいてありがたいという意志だけ伝えました」

   「両陛下の言葉をですね、アンガウルで戦死した連中に伝えたいです」  

  

   

NHKのニュースでは、

「もう何十年も経っていますからね、涙も枯れてますから」

と言っていた倉田さん。

でも戦友の無残な死に方を思い出して、涙を流していました。

枯れるわけないですよね。たくさん泣いてこられたと想像します。

蛆虫として人肉を食し、戦友の体表で羽化するハエ。

ハエは残酷です。

死体だけでなく、弱っている体にもハエは卵を産むそうです。

  

  

天皇陛下がペリリュー島に行ったことが注目される理由が、

倉田さんの言葉の中にありました。

兵隊たちは、天皇陛下のため、国のために戦うと口にしていたということです。

命をかけた天皇陛下が慰霊に来たことは、やっぱり特別なのです。

  

7回に渡って書いてきました。

誕生日の日に、ペリリュー島のみならず、アンガウル島のことが

勉強できました。

ここにもしっかり記録したぞ。

ペリリュー島に関するニュース6/土田さんの忘れられない記憶

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

4月9日放映の「NEWS23」(CBCテレビ)から聞き書きします。

  

あの凄惨な戦闘から70年が経った。

パラオ訪問中の天皇皇后両陛下は、太平洋戦争の激戦地、

ペリリュー島の地を踏まれた。

両陛下が訪れたのは、戦後日本政府が建てた「西太平洋戦没者の碑」

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日本から持ってきた白い菊の花束を供えると、

しばらくの間、深く拝礼された。

 

両陛下と言葉を交わした土田喜代一さん。

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海軍上等兵として、この島で戦い生き残った数少ない人物だ。

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両陛下からは、

「ペリリュー島を訪れるのは14回目ですね、どうぞお元気で」

と声をかけられたという。

 

(土田さん)「おそらく(犠牲となった)1万名が非常に喜んでいると思いました。

    この日を忘れることはないだろうと思った70年の今日の日だと思います」

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1944年の9月、アメリカ軍が上陸。

圧倒的な戦力を前に、絶望的な戦いを強いられたという。

日本軍は、島内に500もの洞窟陣地を構築し、ゲリラ戦を展開。

土田さんには、どうしても忘れられない記憶がある。

  

(土田さん)「『よし 今から戦車攻撃』『希望者3名だ。希望者は手をあげろ』と

    言われ・・・」

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爆弾を抱えて、敵の戦車に突っ込む肉弾作戦の命令。

3人の希望者が募られ、すぐに2人が志願したが、もう1人が現れない。

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すると、友人が志願。

その後、爆音が響いた。

  

(土田さん)「やっぱり毎日思い出さんと、寝きれないかたちですね」

   「(友人が)戦車攻撃に行って死んだこと、思い出すと涙が出ますね」

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日本からはるか遠く離れた南の島で散った1万人あまりの命。

最後まで戦い生き残ったのは、土田さんを含む34人だった。

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戦闘終結後も、土田さんらは、アメリカ軍が終戦を知らせようとしても信じず、

2年近くも洞窟に潜んでいたという。

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(土田さん)「ペリリュー島というのは、こういう戦いの島であったということを、

    世の中に知らせることができて、私たちには非常にうれしいです。」 

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土田さんのおかげでもあります。

土田さんの発言が、私にペリリュー島での戦いの凄惨さを教えてくれました。

  

「NEWS23」でも、倉田洋二さんのことが紹介されていました。

次の投稿で書きます。

  

ペリリュー島に関するニュース5/父親の記憶がない遺族、戦車地雷

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

下記の投稿で、田中恭子さんのことを書きました。

ここでも道草 ペリリュー島に関するニュース2/両陛下の9日の動き(2015年4月11日投稿)

その田中さんについては、4月9日の朝日新聞夕刊に記述がありました。

ペリリュー島の記事は、1面に大きく載っていましたので、

4分割してスキャナしました。

載せてみます。

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田中さんの記事は4つ目です。

「遺族」と言いますが、田中さんのように、

父親の記憶がない遺族もいるわけです。

その田中さんは父親の姿を追って、月日を重ねてきたようです。

自分は昨年やっと知ったペリリュー島の戦いは、

このような遺族を生み出していました。

  

  

土田喜代一さんは、「瓶の中の2匹のサソリ」発言をした人として、

とても印象に残っています。

ここでも道草 「ペリリュー」その2/瓶の中の2匹のサソリ/砲身の細い戦車(2015年8月19日投稿)

 

その土田さんが、また印象に残る話をしています。

 

「決して忘れることのできない光景」と話すのは、

地雷を手に米軍の戦車に向かっていった1等兵の姿だ。

周囲がおじけづく中、

「行って参ります!」と真っ先に手を挙げた。

「彼の勇気に命を救われたのです」

  

強烈な体験です。

そりゃあ、忘れられない体験です。

その場に居合わせたら、と考えると背筋が寒くなります。

しかし、こうやって土田さんが生き残ったから伝えられた話です。

きっと戦場では、勇気ある行動がたくさんあったと思いますが、

それを目撃した人も死んでいては、結果埋もれていってしまいます。

無念なことだと思います。

  

  

戦車地雷について調べました。

「九三式戦車地雷」がヒットしました。

「あんぱん」と呼ばれた地雷でした。

次のサイトが参考になりました。

鎮魂の旧大日本帝國陸海軍 旧軍関連収載品

このサイトを開いてスクロールしていくと、

たくさんの写真とともに紹介されています。

Wikipediaには、気になる記述がありました。

  

本地雷は対戦車用途を主眼とする。

開発は昭和4年(1929年)6月1日に始まった。

研究のための審査が行われ、結果はできるかぎり軽量化を目指すこととなった。

昭和8年(1933年)4月から本格的に研究がおこなわれ、

同年5月、伊良湖射場にて爆薬を使用し威力と薬量を算出した後略)

 ・・・・「九三式戦車地雷」(Wikipedia)

  

「伊良湖射場」は「陸軍技術本部伊良湖試験場」のことのようです。

その気になれば行くことができる場所です。

ここに訪問した人の報告があります↓

寄る辺ない軍事遺産の旅 陸軍技術本部伊良湖試験場

また行きたい場所が増えました。

試験場の中枢施設があった場所は、小中山児童公園となっているそうです。

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レ点の場所が、小中山児童公園のある場所です。

 

  

土田さんは、4月9日の「NEWS23」でも、この体験について語っています。

次の投稿で書きます。

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