20150310報告4/教科について 勧進帳
今日は3月15日。
前投稿のつづき。
村上公也先生の書かれた指導案の中の「教材について」は魅力的です。
村上先生の思いがバンバンに出ていて、読んでいて楽しい。
こういう「教材について」は、指導案検討会で修正されやすい。
研究テーマに沿っていないとか、教科の目標がどうのこうのとか・・・・。
学習指導要領も出てきて、「教科については」は平穏な文章になってしまいます。
しかし、村上先生の「教科について」は村上先生の思い優先です。
過激です。
読む人に、どう思う?と提案してきます。
書き出しはこうです。
この授業は,子どもにウソをつかせる教材である。
一つ目のウソは,カンニングさせて指導者を出し抜くのである。
子どもたちにとってウソは蜜の味である。
子どもたちはそれだけでワクワクする。
これは,写し書きしかできない子どもに
文字の形を必然的に一旦記憶させるための方略である。
「覚える」とは、こういうことかと教わったのは村上先生でした。
2013年11月24日のことでした。
※ここでも道草 11月24日の講座3/漢字を覚えるということ
ノートに何回も書いて覚えるだけではない、
別の発想の覚え方です。
他の場所に書いてある漢字を覚えて、それを戻ってきて再現する仕組み。
上記の「カンニング」は、その発展系と言えます。
でも基本は同じです。
子どもをその気にさせて、学習に取り組ませる村上先生のやり方です。
もう一つのウソは,字のない絵本を読ませるのである。
歌舞伎で,弁慶が「勧進帳を読んでみろ」と言われて,
白紙の巻紙をさも本物らしく読み上げていく場面を
思い出していただきたい。
でも白紙のノートを持たせて想像を膨らませて
読む真似をしろと言っても,無理がある。
子どもたちの想像を掻き立てる映像が必要である。
かといって写真や写実的な絵を見せて,
お話をしろと言っても,それは単なる映像の説明に過ぎない。
写実的な絵ではなく,抽象的で曖昧な映像の絵本を与えると,
それを媒体としてオリジナルの思いや想像を
自分なりの言葉で表現するようになる。
そのウソは子ども達の実際の生活経験を元に
ひねり出されたものなのである。
子どもたちの手垢のついた人間臭いストーリーが展開する。
だからこそ子どもたちの存在自体を表現すること,
互いの人格の表現を交換し合うのである。
私は,むしろこのウソの作り話にリアリティを感じる。
これを取り留めない思いや空想として,切り捨ててしまったら,
子どもたちの発達のバランスは崩れるのではないだろうか。
「子どもたちの存在自体を表現すること」
「互いの人格の表現を交換し合う」
このことができたら、村上先生の言う本音での交流ができるのでしょう。
その結果、強固な人間関係が形成されるのだと思います。
そのために、「抽象的な曖昧な映像の絵本」を用意する発想と実行力。
新しいものを作っていく「発想と実行力」が村上先生の魅力だと思います。
この授業でもそうでした。
思いついただけでなく、実現してしまうんだよなあ。
「もうひとりの自分」実践みたいに。
弁慶が勧進帳を読む場面を思い出していただきたいと書いてありますが、
私には思い出す記憶がありませんでした。
したがって今回調べてみました。
次のサイトが参考になりました↓
勧進帳とはそもそも、寄付をお願いするための文言が書かれた
帳簿(まき物)なのだそうです。
弁慶がウソで話した内容は、次のようなものだそうです。
上記サイトから引用します。
ざっくりとした内容は
「昔、聖武皇帝が妻と死別し悲しみにくれその思いを
蘆遮那仏を本尊とした東大寺を建立された。
しかし平家によって焼失してしまった。
それを悲しみ、俊乗房重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、
帝に願い出で再建のために諸国を手分けし寄付を募っている。
わずかな施しであっても寄付をした者たちは
現世では比べようもなく豊かで誇りある人生であり、
来世では数千蓮華の花の上に座ることができるであろう。
仏の救いを信じ身命を投げ出し、敬って申し上げる。」
白紙の巻物を見ながら、このような内容をアドリブで弁慶は言ったのです。
素晴らしい。
映像を見たくなりました。
これなんかどうでしょう↓
1分すぎあたりから「勧進帳読上げ」の場面。
何といっているのかよくわかりませんでしたが。トホホ。(つづく)
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