« 2014年9月14日 | メイン | 2014年9月16日 »
今日は9月15日。
前投稿のつづき。
いよいよ自分でシャフトを見に行ったときのこと。
1回目は、昨年の9月14日。
大阪に行った時の帰りでした。
※ここでも道草 大阪からの帰りに大津へ/琵琶湖疏水第1トンネル入口(2013年9月15日投稿)
下調べが十分でなく、本当は曲がらなくてはならない道に入れませんでした。
2回目は、今年の3月8日。
京都のキミヤーズ塾の帰り。
※ここでも道草 村上先生週間6/3月8日の講座/ジャンパーが欲しかった(2014年3月9日投稿)
もう暗くなってしまい、あきらめました。
そして3回目。
今までの反省を生かしました。
地図で確認して、どこで曲がればいいか確認しておきました。
今回もキミヤーズ塾ですが、
帰りでは、もう暗くなってしまい不可能なので、朝行くことにしました。
曲がるところはここ↑です。
左に折れる、この鬱蒼とした細い道に入っていきます。
自動車は、左右の草でしっかり擦りました。
本当に大丈夫かと思える心配な道でした。下りました。
行きつきました。シャフトを発見。道の左手にありました。
フェンスに囲われて、近づけませんでした。残念。
1年がかりで行きついて、ちょっと感動。
ここで命を落とした人がいたのですね。
下りてきた道です。
現場に行くことは、楽しいことです。
やめられませんね。
社会科の血がふつふつ音をたてはじめたようです。
シャフトを見て、坂を下りました。
反対側の入り口はこうなっていました。
もう次に行きたい現場は決まっています。
インクラインの施設と、田邊朔郎の立てた石碑ですね。
3月のキミヤーズ塾がいいかな。
9月末の修学旅行では無理でしょう。
今日は9月15日。
前投稿に引き続き、昨年の8月28日放映の「歴史秘話ヒストリア 明治の京都へおこしやす
~千年の都 復興ものがたり」から。
シャフトの建設には苦労があったことを書いてきました。
琵琶湖疏水について、もう一つ問題が生じました。
そのことを書きます。
いくつかのトンネルが掘られましたが、
トンネルの京都側出口から先が急勾配になることがわかりました。
このままでは、荷物を積んだ船が、勢いがつきすぎて転覆してしまいます。
そのために導入されたのが、「インクライン」と呼ばれる施設です。
その仕組みを、番組ではわかりやすく説明してくれました。
まず急勾配の手前に船溜まりを作り、別に水路を作って水を逃がします。
船は船溜まりでいったん陸に上げられ、滑車で動く台車に載って、
ゆっくり急勾配を下りていきます。
急勾配の下で、船を再び水に浮かべ、京都の町をめざします。
当時世界最長のインクラインによって、船は荷物を積み下ろしすることなく、
安全に急勾配を登り下りできるようになりました。
着工から5年たった1890年(明治23年)4月、全長20㎞、延べ400万人が従事した、
琵琶湖疏水はついに完成しました。
田邊朔郎の言葉
「工事で亡くなった仲間たちに、見事に完成したこの疏水を見せてやりたい」
田邊朔郎にとって、疏水工事の犠牲者に対する思いは死ぬまで消えませんでした。
琵琶湖疏水の完成によって、京都には大量の物資が
安全かつ迅速に運ばれるようになりました。
年間5万隻の船と22万トンの物資が疏水を行きかい、
京都復興の牽引力となっていきました。
この琵琶湖疏水を使って、日本初の事業用水力発電も行われました。
その電力によって、日本初の電車も京都に誕生しました。
京都の工業は、いち早く近代化に成功しました。
インクラインの施設の横には、田邊朔郎が自費で立てた石碑があります。
その石碑には、琵琶湖疏水の工事で命を落とした17人の名前が刻まれていました。
田邊は、尊い犠牲の上で成し遂げた疏水工事を、自らの原点として、
生涯忘れることはなかったそうです。
この番組で、琵琶湖疏水のことがよくわかり、特にシャフトに行って見たいと思いました。
(つづく)
今日は9月15日。
前投稿に引き続き、昨年の8月28日放映の「歴史秘話ヒストリア 明治の京都へおこしやす
~千年の都 復興ものがたり」から。
シャフトを掘って、工期を短くしようと試みたところのつづきです。
シャフトを掘り始めてみると、岩盤は固く、
つるはしなど人の力だけではなかなか作業がはかどりませんでした。
その上、狭いシャフトには2~3人しか入ることができず、
1日ようやく20cm進むのが限界でした。
20㎝!
(岩盤以上に?)最大の敵は、とめどなく流れ出てくる地下水だったそうです。
作業が水脈にぶつかると、多い時には20mも水が溜まり、工事は中断したそうです。
完成して47mのシャフトに、20mの水。そりゃあ中断します。
シャフトの工事の絵が残されています。
それによると、シャフトの上には巻き上げ機があって、
24時間、ずっと人の手によって水を組み上げなくてはならなかったそうです。
光のほとんど差し込まない場所で、泥にまみれながら果てしなく続く作業。
そんな最中に、思わぬ悲劇が起こります。
過酷な作業で、精神的に追い詰められた作業員が、シャフトに飛び込んで、
命を絶ってしまったのです。
この事故を皮切りに、作業中のけがや病気で亡くなる人が続出します。
自分がたてた工事計画によって、犠牲者が出たことに、
田邊朔郎は悩みます。
しかし、工事を止めるわけにはいきません。
田邊「あなたたちの死は、無駄にはしない。必ず疏水を完成させてみせる。」
田辺朔郎は寝食を忘れ、シャフトの工事に没頭します。
そして、着工から10カ月後の1886年(明治19年)4月、ついにシャフトは完成します。
シャフトが完成してから、工事は順調に進み、
第1トンネル(長等山トンネル)は無事完成しました。
こんな歴史に触れたくて、シャフトに行きたいと思うようになりました。(つづく)
今日は9月15日。
前投稿で予告したように、大津市の琵琶湖疏水の
長等山トンネルの第一竪坑(シャフト)のことを書きます。
以後、「シャフト」と書いていきます。
なぜここに行きたいと思ったかというと、テレビ番組の影響です。
昨年の8月28日放映の「歴史秘話ヒストリア 明治の京都へおこしやす
~千年の都 復興ものがたり」を見たからです。
まずはこの番組の紹介を書きます。
番組を見たのは、昨年の8月31日でした。
※ここでも道草 今欲しいものはミラプレ(2013年8月31日投稿)
明治になって京都の人を驚かせたので、天皇の遷都。
天皇が東京に行ってしまった後、京都では復興のための手が打たれました。
博覧会が開かれて、外国人がたくさん訪れるようになりました。
そして今の金額で総工費1兆円の費用をかける琵琶湖疏水工事が行われました。
この工事を任されたのが、21歳の田邊朔郎(たなべさくろう)でした。
大学でトンネル工事の技術を身につけた田邊朔郎の初仕事が、
この巨大プロジェクトでした。
琵琶湖と京都を運河で結ぶのが琵琶湖疏水計画でした。
海がなく、港がない京都では、琵琶湖で陸揚げされた物資の主な輸送手段は人や牛でした。
そのため、大量の物資を運ぶことができませんでした。
京都が復興し、さらに成長するためには、
物流の大動脈が必要とされていました。
田邊朔郎の計画は、琵琶湖と京都の間にある山に6本のトンネルを作って、
20㎞の運河を作るというものでした。
工事が始まったのは、1885年(明治18年)6月でした。
まず立ちはだかったのは、大津から京都への最初の峠でした。
たしかこの峠の名前は小関峠。昨年から3回も行ったので、間違いない。
田邊朔郎は、ここに当時日本最長になるトンネルを掘る計画を立てました。
トンネルの名前は長等山(ながらやま)トンネル。
掘削(くっさく)の機械もなく、人手に頼るしかなかった当時、
普通に両側から掘り進めていては、時間がかかりすぎてしまいます。
そこで、途中でシャフトを掘ることになりました。
番組では、ここでシャフトが紹介されていました。
細い旧小関峠越え道の傍らに、シャフトはありました。
※参考 旧小関峠越えの現在の様子が、このサイトでよくわかりました。
シャフトを掘ることで、4か所から同時に掘ることができるので、
工期が大幅に短縮され、費用が節約できます。
このシャフトを掘る工事方法は、アメリカから導入された最新の工法で、日本初の試みでした。
(つづく)