肉弾三勇士 その2 特攻の考え方
今日は3月15日。
以前、肉弾三勇士について書きました。
※ここでも道草 82年前の2月22日/肉弾三勇士(2014年2月22日投稿)
図書館で借りてきてこの本を読みました。
「軍神 近代日本が生んだ英雄たちの軌跡」(山室建徳著/中公新書)
この本に肉弾三勇士のことが書いてあって、興味深いことが書いてありました。
引用します。
三勇士の行動が衝撃的だったのは、「此れまで我国に於いては、古来豪勇、壮烈の軍人は、
千百を以って之を数ふべし。然れ共今回の三勇士の如く、(中略)百死の中、一生の望もなき
生還絶無の奮闘にして、豪勇、壮烈の極致といふべく、上下三千載、東西古今の史乗中決して
其の比類を見る能わざる所」(藤本充安/『日本及日本人』245号/昭和7年3月15日発行)
という理由による。
体当たり攻撃を敢行した特別攻撃隊の歴史を知っている今日から見ると、
昭和初期でも生還の望みのない作戦を当然視していたように思えるかもしれない。
しかし、三勇士が大きな反響を呼んだのは、
こうした攻撃が今までにないやり方だったからであった。
自らの命を進んで捧げた三勇士の行動は、その斬新さによって昭和初期の日本人に、
これまでに味わったことのない驚きを与えていた。(199p)
特別攻撃隊、特攻の考え方は、昭和初期の段階ではまだ当たり前ではなかったのです。
おそらくこの辺りは、ずっと誤解していたと思います。
この三勇士にしても、実際に死ぬ覚悟で爆弾を抱えていったのではありませんでした。
間違った情報が広まりました。
しかし、この間違った情報によって三勇士が讃えられ、
上層部が命と引き換えに敵に攻撃を加えるやり方をするようになったとしたら、
後の戦いに影響を与えた「軍神」ということになります。
それも三勇士本人には関係ない展開です。
こんな文もありました。引用します。まさにそのことに触れています。
昭和の初めに三勇士という新しい軍神像を生み出したこと自体は、
その後の歴史に大きな影響を与えた。
明治の軍神たちの物語では、偉人を主役とする哀愁に満ちた話に人々は泣いたが、
そこから分かりやすい教訓が得られるわけではなかった。
彼らの人格は容易にマネできるものではない。
これに対して、三勇士は傑出した人格ではなく、具体的な行動によって注目を浴びた。
国民は、自分たちと同じような普通の人間による究極の自己犠牲を目の当たりにして、
涙を流した。
このような行動は日本人ならば誰にでもできるはずである、三勇士の偉大さは、
自らの決断でそれを実行に移した点にある受けとめられた。
戦争末期の特攻作戦を支えた精神土壌が形作られる上で、
このことは案外大きな意味を持ったのではないだろうか。(260p)
昭和初期に特攻の考え方は当たり前ではなかった、
もしかしたら肉弾三勇士がきっかけに特攻の考え方が生まれたかも?
そんなことに気づいただけでも、肉弾三勇士を知り本を読んだ甲斐があったというものです。
付録
3月15日TV【地方発ドキュメンタリー 石に刻まれた巨大災害 桜島大噴火100年
その時何が】(2014年3月4日放映)
〇桜島大正大噴火 大正3年(1914年)1月12日 〇岩松暉(あきら) 鹿児島大学名誉教授
〇橋村健一(郷土史研究家) 〇大正噴火前、桜島は休火山と思われていた
〇「大半の記念碑はその土地ならではの思いがひしひしと感じられる。」
〇戦時中、空襲で一時資料が多く失われてしまった→石碑での解明 〇廃校跡に残る石碑
〇火山灰を集めたボラ山 〇串良川 土石流 泥流 洪水
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