「戦火に消えた幻のエース」 広瀬習一と神田武夫
今日は4月23日。再スタートから10日目。
以前、戦前の巨人軍で投手として活躍し、
戦争に召集され、戦死した広瀬習一選手のことを書きました。
もっと詳しく知りたいと思い、
本「戦火に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯」を読みました。
著者の上田龍さんは、野球史研究者という肩書もあり、
この本の中でも、文章の下に関連のミニ知識が書かれていて、
読破した時には、戦前戦後の野球に詳しくなった気分になりました。
1941年のシーズン途中に巨人に入団。8勝。
そして翌年1942年には21勝。
沢村栄治の力が衰え、スタルヒンが重病で、
巨人投手陣が手薄な時に、巨人に貢献した投手、それが広瀬習一投手でした。
この本で、広瀬習一には、高校時代からのライバル神田武夫(南海入団)の存在が大きかったことを知りました。
南海と対戦して、相手が神田だと、広瀬は燃えたようです。
下の写真は、「戦火に消えた幻のエース」より。
神田武夫について引用します。
神田武夫(1922-1943年)
京都市出身。京都商では快速球と鋭いカーブを武器に「沢村二世」の異名を取り、
1940年春の選抜では決勝に進出するが、大島信雄を擁する岐阜商に惜敗。
卒業後南海に入団し、1年目(1941年)に25勝、翌年も24勝をマークしたが、
これは南海の2シーズンの勝ち星92の半分近い数字だった。
京都商卒業前から胸を患っており、プロ入り後は肺結核を発症。
1943年、開幕から欠場して療養に努めたが、
7月27日、京都の自宅で22歳の若さで世を去った。
現役時代の背番号「19」は、戦後、野村克也が背負ったことでも知られる。 (66p)
戦争に多くの選手が召集されていたため、投手の人数も少なかったようです。
その中で酷使された・・神田投手も進んで投げたようです。
その結果体を壊し、死期を早めたと思います。
24勝した翌年に亡くなってしまうなんて・・それも22歳。無念だったと思います。
そして翌年の1944年に広瀬習一も戦地で亡くなります。
「日本プロ野球復活の日」(鈴木明著/集英社文庫)では、
その死については詳しくは書いてありませんでしたが、
この本には書いてありました。
1944年9月13日。フィリピンレイテ島での戦闘中、
本部に応援を求めに行く役を志願し、川を横切っている最中に銃撃され、
習一は激流に流されてしまったそうです。
1941年~42年に、巨人と南海で活躍した2人の投手。
もっともっと野球をしたかったのに、結局戦争がそれを阻みました。
この本は、2人の伝記になっているなと思って読みました。
こんな2人がいた。ちゃんといた。
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