« 2011年8月3日 | メイン | 2011年8月6日 »

2011年8月4日

2011年8月 4日 (木)

知多半島に行く5/メガソーラー施設

   

今日は8月4日。

前投稿のつづき。

源義朝、織田信孝ゆかりの場所を見た後、

次は武豊町にある武豊火力発電所に向いました。

注目は、敷地内にあるメガソーラー施設が少しでも見られるかどうかです。

完成は2011年の10月の予定です。しかし、物資の流通が悪く、延期は必至。

下記の投稿で少々詳しく書きました。

「中部電力のメガソーラー計画」html

    

自動車で走っていたら、碧南火力発電所が海の向こうに見えてきました。

いや~、巨大です。

RIMG0076 
ここも10月の見学候補地の一つです。

     

武豊火力発電所が見えてきましたが、

メガソーラー施設の太陽光発電パネルは全く見られません。

こうなったら尋ねよう。

RIMG0077 
   

ここが武豊火力発電所の入口。

守衛さんに尋ねました。

    

私「どこかメガソーラー施設が外から見られるところはありますか」

守「施設は、敷地の南側にあるけど、見られるところはないね」

私「施設が完成するのは1カ月ほど遅れると聞きましたが、どうですか」

守「そう1カ月」

私「12月には完成していますか」

守「しているね」

12月完成はだいぶ自信がありそうでした。

    

10月の見学を12月にすることはできるのかな?

メガソーラーを子どもたちに生で見させたい気持ちが高まっています。

   

以上で「知多半島に行く」シリーズが完。

知多半島に行く4/織田信孝辞世の句

  

今日は8月4日。

前投稿のつづき。

源義朝のお墓の傍らにある織田信孝のお墓です。

RIMG0035織田信孝の墓 

   

織田信長の三男。

明智光秀との山崎の戦いでは総大将。

しかし秀吉との戦いに敗れ、捕えられ、

何と義朝の墓のある大御堂寺に送られます。

信孝はそこで自害。

    

信孝が残したと言われる辞世の句。

昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

意訳※http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage264.html

「この内海(うつみ=地名/「討つ身」とかけている)の野間の地は、

平治の昔、主人源義朝が家来の長田忠致の卑劣な裏切り行為によって殺された場所だが、

長田忠致が結局非業の最期を遂げたように

お前にも必ず天罰が下り『主人殺し』の報いを受ける日がくるだろう。

古来よりそうして主君を討った逆臣は永くは続かん。

報いを待つが良い、羽柴筑前よ。」

    

源義朝の最期を勉強した後だけに、この辞世の句がよくわかります。

     

Wikipediaによると、「たしなみある武将の信孝が、

このような稚拙で露骨な辞世の句を残したとは考えにくく、

この辞世の句が信孝の残したものかどうかは疑問である。」とありました。

真相はいかに。

織田信孝が自害した場所が、大御堂寺であったことが、

このような句が生まれた背景だと思いました。

    

「知多半島に行く」シリーズは、次は武豊火力発電所のことを書きます。

(次の投稿につづく)

知多半島に行く3/源義朝のお墓

  

今日は8月4日。

前投稿のつづき。

   

源頼朝によって建てられた大御堂寺(野間大坊)に行く。

目的は義朝のお墓。

RIMG0005野間大坊看板 野間大坊の案内図

   

RIMG0019 お墓の案内板

こう書いてあります。


源義朝公御廟由来

源氏の総帥左馬頭源義朝公は、

京都六波羅合戦に平家に敗れ

東国へ向われる途中此の地の

東方野間田上の御湯殿で家臣

長田忠致(ただむね)のために、

入浴中謀殺なされしその時、

我に木太刀の一本なりともあればと

悲痛な一言を残されて最期を

遂げられましたので、

その慰霊のために木太刀を献ずる

ならわしが出来て山の様に

積まれています。

木太刀ご奉献の方はすべての

願いが叶うといわれています。

     

RIMG0021 RIMG0023 
  

お墓前の建物は無人。500円で木太刀が売られていました。

RIMG0024 
  

赤錆びた年季の入った入れ物に500円玉を投入。

木太刀には、家内安全と、

娘が頑張っている勉強、息子が頑張っている野球がうまくいくようにと書きました。

願いを叶えてよ、義朝さん。

   

    

そしていよいよお墓。

RIMG0031 
RIMG0030 
  

もちろん、私の書いた木太刀も置いてきました。

木太刀が山積みになった、不思議なお墓です。

    

源義朝が愛知県とつながりがったというのがうれしくて、

夏休みであることをいいことに、

年休をとって行ってきました。

やっぱり実際に行くのはいい。

可能なところは出向きたい。

   

    

    

義朝のお墓の横には、織田信孝のお墓もありました。(そのことは次の投稿)

 

 

知多半島に行く2/磔の松

   

今日は8月4日。

前投稿のつづき。

   

源義朝と家臣の政清は、長田父子によって殺され、

首は都に献上された。

長田父子は、ご褒美をもらう。

しかし、平家滅亡後、頼朝が征夷大将軍になり、彼の命令で、

長田父子は磔(はりつけ)にされ殺される。

   

磔させられた松の木があるというので、見てきました。

RIMG0067磔の松看板

RIMG0068磔の松 磔の松・・・野間駅西 少々山の中

   

この時、久々に大きなカタツムリを見かけました。

少し離れていましたが、望遠で無理して撮りました。

RIMG0064大きなカタツムリ 
  

     

「乱橋跡」という場所もありました。

RIMG0046乱橋跡 RIMG0059 
  

乱橋と呼ばれる理由が2つあるようです。

850年も前のことなので、正確にはわからないでしょう。

でも、戦っている武士たちの姿を想像します。   

    

頼朝は、亡父のために建立したのが大御堂寺(野間大坊)です。

ここに行った時の写真は、次の投稿で。




知多半島に行く/義朝最期の場所

  

今日は8月4日。

知多半島にさっそく行ってきました。昨日。

   

目的は源義朝ゆかりの場所に行くこと。

もう一つは、武豊火力発電所内にあるメガソーラー施設を、外から見ること。

     

源義朝が平治の乱後に東国に逃亡。

その途中、今の知多半島の尾張国野間(知多郡美浜町)に来ます。

ここで義朝は討たれるわけですが、

その時の様子を次のサイトを参考に書いていきます。

http://www.nakanoprint.co.jp/sun/busyo/nagata.html

        

野間には、長田忠致の屋敷があった。

RIMG0072屋敷跡 長田館跡・・野間駅西
     

忠致は義朝に同行した家臣鎌田政清の親戚でした。

義朝も政清もここなら大丈夫と安堵して休むことにした。

忠致の息子景致は、尾張国司の義朝を捕えるという命令に動揺する。

匿(かくま)ったことがわかったら、長田氏が滅びるかもしれない。

    

景致は実行する。

疲れた義朝を長田館の西にある薬師堂の湯が湧く湯殿へ案内した。

そして家臣に殺害を命じた。

裸の義朝は「一本の木刀たりとあれば」と非業の最期を遂げる。

RIMG0051湯殿跡看板 
RIMG0052湯殿跡 湯殿跡・・・野間駅東。法山寺の下にあり。

   

この湯殿跡には立派な義朝の像があってビックリしました。

RIMG0054義朝公の像 RIMG0056義朝公の顔アップ

  

さて、話はつづく。

義朝が殺されたことを知らない政清は、忠致と館で談笑していた。

そこに長田家臣がなだれ込み、周りを囲んだ。

何が起こったのかわかった政清は自害する。(次の投稿につづく)


最近の写真

  • Img_8598
  • Img_8597
  • Img_8596
  • Img_8595
  • Img_8594
  • Img_8593
  • Img_8591
  • Img_8589
  • Img_8588_2
  • Img_8587
  • Img_8585
  • Img_8584

楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉