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2021年7月27日 (火)

番画〈338〉:「白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」②

   

今日は令和3年7月27日。

   

前記事の続きです。

〈338〉「ETV特集 白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」

  (2021年7月24日放映)

この番画をほぼ聞き書きしてます。

   

〇死の灰を浴びたあの日から67年。

 大石さんは何に怒り、何に希望を見出してきたのか。

 第五福竜丸元乗組員 大石又七さんの人生を見つめる。

  

〇長女の佳子さんは、このマンションで体の自由がきかない

 晩年の大石さんと7年間暮らした。

 

〇アルバムを見せる佳子さん。

 笑っていないとヤクザみたいな顔だった。

 

〇中学校を中退し、焼津でカツオ船に乗ったころの大石さんの写真。

 まだ14歳の時の写真。

  

〇佳子:船に乗ること自体、自分は乗りたくて乗ったのではないし。

  父の父親、おじいさんが保証人になって、家が破産しちゃって、

  お金がなくて、で、父親も亡くなっちゃって、しょうがなくて、

  長男である自分が船に乗って。

  何で自分の人生はこんななのよと。

  船に乗ったはいいけど、今度は被爆しちゃって、

  また世間から叩かれちゃって。

  

〇事件から38年後 58歳の大石さんをとらえた映像。

 (クリーニング店のシャッターを開けるところ)

 東京でクリーニング店を営んでいた。

 この1年前、大石さんは、乗組員の中でただ一人、

 長い沈黙を破って、自らの半生を綴った手記を発表していた。

  

〇「死の灰を背負って 私の人生を変えた第五福竜丸」

 (大石又七著/新潮社)

  

〇ここから1992年に放映された「NHKスペシャル 又七の海」の

 映像がしばらく流れる。

 もしかしたら録画しているかもしれないと思ったが、

 録画していなかった。 

 一度見てみたいと思っていた番組を見ることができた。幸運。

 北村和夫さんによる「死の灰を背負って」の朗読。

  

〇北村:閃光が見えてから2時間くらい、ふと気がつくと、

  雨の中に白い粉のようなものが混じっている。

  「何だこりゃ」思っているうちに粉はだんだん量が多くなった。

  やがて雨は止み、その白い粉だけになった。

  みんなゴム長靴にゴムのズボン、上半身は白いシャツ1枚。

  船も人も風上に向かっての作業なので、

  粉は目、耳、鼻などに容赦なく入り、まとわりつく。

  目に入るとチクチクと痛くて、目を開けていられない。

  灰を被った時点では、だれも口には出さなかったが、

  作業中に眩暈がしたり、縄をあげ終わるころには、

  頭痛や吐き気。夜になると下痢をする者も何人かいた。

  1週間を過ぎた頃、甲板長の川島さんが、髪に櫛を入れていて、

  ふと毛がぬけてくるのに気がついた。

  「えぇ~」と手に手に自分の髪の毛を引っ張ってみた。

  「抜ける」ほとんどの者が大なり小なり、引っ張ると抜ける。

  久保山局長は白い灰に危険を感じていたのか、

  「水で体を洗え」と何度も言った。

  

〇北村:ピストルのお化けのような恰好をしたガイガーカウンターを

  俺たちの身体に近づけると、フライパンで豆でも炒るような

  高い連続音がして、あわてて先生方は後ろに飛びのいた。

  これでは映画にも出てきそうな放射能人間だ。

  爪を切られ、身体中の毛は剃り落された。

  俺たちの小便は、アメリカにも送られていると聞いた。

 

〇北村:9月23日。無線局長の久保山愛吉さんが亡くなりました。

  「お父ちゃん」奥さんと3人の子供たちの呼ぶ声が、

  張り詰めた病室の空気をひきさくように響いた。

  「これでいいのか」

  遺体は7時間もかかって解剖された。

  命を奪われたあげくに、八つ裂きにされる。

  「いやだ。俺はいやだよ」

  

〇被害は第五福竜丸だけではなかった。

 のべ900隻を超える船から、魚の汚染が見つかり、

 水産業は大きな打撃を受けた。

 ビキニ水爆の半年後には、アメリカに対抗して、

 ソビエトが核実験。(地上での実験)

 日本に降る雨の中からも、放射性物質が検出されると、

 放射能パニックが広がっていく。

 広島、長崎につづく、3度目の被曝。

 原水爆禁止の訴えは、国民の3人に1人が署名するほどの

 高まりを見せた。

 署名運動は翌年、原水爆禁止世界大会に発展。

 ビキニ事件は核兵器反対運動の原点となっていく。

 

〇一方、反米感情の高まりを恐れた日米の政府は、

 解決を急いだ。

 事件から10か月後。アメリカが7億2000万円の見舞金を

 日本に支払うことで合意。アメリカの責任は今後一切問わないという

 政治決着だった。

 大石さんたちには、1人あたり200万円の見舞金が

 支払われるようになった。

 事件から1年2カ月。

 (大石さんたちは)東京の病院を退院。故郷に戻った。

 しかし、多額の見舞金を受け取ったことで、

 大石さんたちはいわれのない、妬みや偏見にさらされる。

 「お金の一部を拝借したい」「見舞金は寄付すべきだ」

 大石さんたち乗組員は、被害者であるのにも関わらず、

 沈黙を余儀なくされていった。

 そして事件は急速に忘れられていく。

    

  

ここまで番組の13分30秒ほど。

まだ4分の1に至りません。

  

つづく

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