2010年7月11日 (日)

遣唐使の記録が中国で発見される

   

以前、遣唐使井真成(いのまなり)のことを書きました。

http://mitikusa.typepad.jp/blog/2010/06/post-a2e9.html

中国で墓誌が見つかっったことで、

遣唐使で中国に渡ったが、日本に帰れずに中国で亡くなった人だとわかった人でした。

同じように、中国の史料(文献以外)で遣唐使が確認された2例目が、ニュースで報じられました。

7月10日、読売新聞より。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100710-00000296-yom-soci

   

遣唐僧「円仁」の石版、中国で確認…直筆かも

平安時代前期の天台宗の高僧、円仁(えんにん)(慈覚大師、794~864年)とみられる名前が刻まれた石板を、

国学院大栃木短大の酒寄(さかより)雅志教授(日本古代史)らが、

中国河南省登封市の法王寺で発見したことが、わかった。

  

中国で、遣唐使の足跡を示す史料が確認されるのは、

文献以外では2004年に発見された井真成(せいしんせい)の墓誌に次いで2例目。

  

石板は、同寺のお堂の一つを囲む外壁にはめ込まれていた。

大きさは縦44センチ、横62センチ。

道教を信仰する皇帝・武宗による仏教弾圧「会昌の廃仏」(845年)の際に、

寺の宝だった仏舎利を守ろうと地中に埋めて隠したことが記された後に「円仁」の文字があった。

同寺刊行の出版物に石板の存在が書かれているのに、

酒寄教授が気づき、今月、現地を訪れて確認した。

   

酒寄教授によると、当時の中国僧の名を記した文献に同じ名が見当たらないことや、

円仁の旅行記「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」の記述から、

845年に同寺周辺にいたとしても矛盾がないことから、

「円仁の可能性が高い」としている。文字の書体が円仁本人の他の文書と似ていることから、

「直筆の可能性もある」という。

  

円仁は、遣唐使船で838年に唐に渡って847年まで滞在。天台教学を修め、

廃仏政策によって長安を追われた。

多くの経典を持ち帰り、帰国後は比叡山延暦寺の興隆に努めた。

酒寄教授は「困難な状況の中で、舎利を隠すのを手伝う円仁の、

徳の高さを示すもの」と話している。

    

     

すでに遠い昔に亡くなった人の足跡に触れれて面白い。

「早咲きの花」前田先生が話すシーン

   

映画「早咲きの花」(2006年)について。

出兵することになった前田先生が、

子どもたちの前で話をするシーン。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が板書された黒板の前で話をします。

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前田先生はこう言います。

  

オレのたった一つの心残りは、

お前たちにまっとまっと教えたいことがあったのに、

それを教えてあげられなかったことだ。   

   

戦争中はこういった無念な気持ちで出兵していった教師もいたんだろうなあ。

今の自分が幸せな状態であることを自覚しよう。

2010年7月10日 (土)

金星とレグルス接近/自作絵本「自然のかくし絵」

   

今晩、日没後に西の空に輝く金星を見よう。

その左下にあるのが、しし座のレグルス。

今日は金星とレグルスが接近する日。

昨晩もだいぶ近かったので、今晩は期待できそう。

    

     

2年前の夏休みの実技研修会。

図工の先生に教えてもらって、絵本を作りました。

これが財産。

昨日、1学期最後の図工の時間に、絵本の作り方を子どもたちに教えました。

子どもたちは夢中になって作り、予定していた画用紙が不足してしまいました。

うれしい悲鳴。

それでは自作絵本「自然のかくし絵」を写真で。

    

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でもこの絵本の魅力は写真ではわからず。動画で見てください。

(下の写真をクリックしてください)

    

「自然のかくし絵」絵本     

    

      

今度この絵本を作って見ようと決めて、

自作絵本を探したが見つからず。

やっと当日の朝発見して、作り方を教えることができました。

こうやって写真と動画をブログに投稿しておけば、

次回行方不明になっても、あわてないですみます。

凹(オウ)にも書き順があるんだ/さらに卍(まんじ)

 0517200  

  

   

   

    

   

漢検の勉強している奥さん。

凹についていろいろ教えてもらった。

  

部首がある!

凵の部分がそうで、部首名は「うけばこ」

たとえば

凶・出・函などもこの部首。

凹の相棒の凸も、部首は「うけばこ」

   

書き順もあった。

次のサイトで見てください。

http://kakijun.main.jp/page/0517200.html

     

いやはや、部首もあって書き順もあって、

凹も漢字だったのですね。

ちなみに凹は単独では「ぼこ」とは読まず、

「凸凹」と並んで「でこぼこ」と読むようです。

   

     

    

調べていたら、何と卍(まんじ)も漢字だと判明。

部首は・・・・・・・・

何だと思います?

Manji200     

    

   

   

    

   

「十(じゅう)」です。

書き順が、もうアクロバティックです。

次のサイトを再び見てください。

http://kakijun.main.jp/page/manji200.html

総画数6画!

秒の下(?)はなぜ100進法なのだろう。

先日、バタフライ日本代表選手加藤ゆかさんの日本最高記録「57秒89」をうっていて、

疑問に思いました。

分とか秒は、60進法なのに、

秒の下(?)は100進法なのだろう。

60進法ならば、「89」はありえない。

     

きっと同じような疑問を持っている人はいるだろうと思って調べました。

さっそくYAHOO知恵袋で見つけました

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013245935

しかし、質問した人が納得していないように、

私もここを読んだだけではイマイチでした。

でも次のサイト(同じYAHOO知恵袋)での質疑応答は良かったです。

     

(質問)

9秒99って言うタイムですがなぜ

1時間は60分

1分は60秒

なのに秒以下は100で繰り上がるのですか?

また、時計は24時間ですが100000時間があること等から、

時間以上の単位は無いのでしょうか?

      

(回答)

秒以下が100で繰り上がるのではなくて

時間の単位が秒より下がないからです

計測器の精度により1/100秒、1/1000秒まで計れるから表示も

9秒99や9秒999などとなります

また時間の単位としては「時間」より上はありません

便宜上「日」「月」「年」というのはありますけど

    

     

「秒」より下の単位はなく、「時間」より上の単位もない。

「時間」「分」「秒」で時間は表現されている。

この当たり前のことをあらためて知って、ちょっと感激。

カメラのシャッタースピードも

60分の1秒もあれば1000分の1秒もあったりとさまざまだもんなぁ。

Syata   

   

  

    

    

今日も朝から納得。

休みの日の朝は、ゆっくりこういう知識と出会えるのがいい。    

「蛤御門の変」について復習・認識

   

(前投稿のつづき)

「蛤御門の変」の説明では、次のサイトの説明がわかりやすかったです。

ここで一度「蛤御門の変」を復習・認識しておきたい。

※参考:「京都 行政書士 澁谷行政書士事務所」

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shi-bu/kyotorekishi/hamaguri.html

    

京都御苑にはいくつ門があるか。答えは九つである。

そのひとつの蛤御門は烏丸通りに面した御苑の西側にあり、

俗に言われる「蛤御門の変」または「禁門の変」として名を馳せている。

元治元年(一八六四)に生じた歴史的大事件を指しているのだ。

前年の文久三年(一八六三)の政変において、

京都の政界を追われた長州藩尊攘派は勢力の挽回を図ろうと二千人の藩兵を率いて上京、

そこで御所を護衛する会津・薩摩両藩との激突を迎えた。

その激戦地となったのが、蛤御門の周辺だった。

戦いはわずか一日にして終わり、長州藩はまたしても敗退を余儀なくされた。

その際、長州藩の宿泊所だった嵯峨の天龍寺は、

会津・薩摩両藩の追撃を受け、焼失を免れることができなかった。(下につづく)

     

    

25pic

     

     

※NHKの大河ドラマ「龍馬伝」サイトよりhttp://www9.nhk.or.jp/ryomaden/kikou/25.html

 左:蛤御門  右:天龍寺

      

        

(つづき)蛤御門は今でも戦いの弾痕の跡を残している。

門が焼けることはなかったが、蛤御門の変がもたらした戦火は京都の町を襲い、

三日間に渡って延々と燃え続けた。

この大火は鉄砲や大砲による撃ち合いで発生した火事ゆえに

「鉄砲焼け」「どんど焼け」とも呼ばれている。

また、この蛤御門の変をきっかけに、それまで敵同士だった薩摩と長州の連合藩が誕生し、

ひいては幕府の威信低下を招くこととなった。
 

ところで「焼けて口開く蛤御門」との言葉を聞いたことがないだろうか。

実はこの蛤御門、正しくは新在家御門と言い、

元治元年の蛤御門の変では焼けることはなかったが、

天明八年(一七八八)のいわゆる天明の大火においては初めて門が開けられたのだった。

そこで焼けると口をあける蛤に例えて「焼けて口開く蛤御門」と言われるようになった。

以来、通称蛤御門と呼ばれている。

    

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※焼き蛤:「お空の下で遊ぶしねぇ?」よりhttp://osora.net/archives/747

とても美味しそうな写真です。

   

     

「ここでも道草」では、先月「蛤御門の変」について書きました。

http://mitikusa.typepad.jp/blog/2010/06/post-277d.html

9月の終わりに修学旅行に行くために、

再び関心が高まってきています。   

   

        

      

   

2010年7月 9日 (金)

京都の人が「この前の大火事」と呼ぶのは・・・

   

NHK大河ドラマ「龍馬伝」のラストの「龍馬伝紀行」。

ときどき面白い情報を提供してくれます。

6月20日放映は「蛤御門の変ゆかりの場所」

この戦いで、京都市中は3日間炎に包まれ、

都の半分が焼失したといいます。

そのため、京都の人が「この前の大火事」と呼ぶものが、

蛤御門の変の火事であるそうな。

面白い!

太平洋戦争での京都への空襲は、

他都市に比較して少なかったこともあって、

「この前の大火事」が蛤御門の変になるのでしょうか。  

  

本当に京都の人はそう言っているのか。

確かめたいところです。

    

      

※蛤御門

2009031011093000001_2    

   

   

     

9月に修学旅行に行きます。

蛤御門に寄れないかな。   

    

    

          

    

2010年7月 8日 (木)

水泳選手のお母さんがやってきた

  

水泳選手の加藤ゆかさんと、

私の学級の子どもが幼馴染みであることから、

なんと、ゆかさんのお母さんが学級に来てくれました。

  

質問タイムをとり、子どもたちのたくさんの質問に

お母さんが丁寧に答えてくれました。

子どもたちにとって、とても励みになる話をしてくれました。

泳法の中で最も苦手だったバタフライで頭角を表し、

日本記録保持者になったなどなど。

あっという間の1時間でした。

子どもたちにとっても、私にとっても貴重な体験でした。

  

※2008年9月6日100mバタフライ日本新記録57秒89を出した時。http://www.hotcore.jp/araiss/sintyaku233.htm 

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最後に学級で作った応援色紙を渡しました。

8月18日からアメリカで行われる

パンパシフィック大会に出場する加藤ゆかさんへの色紙です。

世界の壁は厚いようですが、打ち破ってほしいです。

8月中旬、わがクラスのメンバーは応援に盛り上がること必至です。

2010年7月 6日 (火)

映画「早咲きの花」を見せました

今日の夕方は初体験のことがあります。

市内の青年部の先生たち40人ほどの前で、

30分のミニ講演をします。

テーマは「豊川海軍工廠ゆかりの場所」

このブログでかつて書いてきたことを中心に発表します。

先生たちの前で話すなんて初めてのこと。

どんな展開になるやら。

聴いてくれた先生たちにとって少しは価値ある30分になってほしいと思います。

    

今回呼ばれたのは、このブログに書いてきた内容(活動)に目をつけてもらったため。

とてもうれしいこと。頑張っちゃおうと思います。

     

    

    

来週月曜日、海軍工廠での爆撃を体験された方の話を聴く会があります。

その会に向けて、海軍工廠の学習を進めてきました。

その大詰めえ、映画「早咲きの花」(2006年)を見せました。

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当時の国民学校の子どもたちの様子、そして海軍工廠の悲劇を知るすぐれた映画だと思います。

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先生を中心とした学級写真が出てきます。

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映画のラストで、学級写真に写っている人物で、

戦争で亡くなっていった順番に姿が消えていく場面があります。

最初が、戦地に向かった若い男の先生が消えます。

そして戦争は子どもたちの命を奪っていきます。

子どもたちの姿がどんどん消えていく場面はとても悲しいです。

    

今日子どもたちから感想が届きます。

2010年7月 4日 (日)

火縄銃/頬付け

   

(前投稿のつづき)

写真は、講師の林さんが火縄銃を打つために構えたところ。

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今回の火縄銃体験教室で、火縄銃を勉強して一番の収穫は、

この構え。

よ~く見てください。

私は今まで見てはいても気がつかなかったことがありました。

   

銃口の反対側を「台尻(だいじリ)」「銃尾(じゅうび)」と言います。

その部分を、体のどこにつけるか。

   

  

   

頬(ほお)についています。

このタイプを「頬付け(ほおづけ)」と言うそうです。

日本の火縄銃の場合は、全て頬付けだそうです。

実際に火縄銃をもって構えようとすると、

けっこう重いこともあって、つい肩(腕の付け根あたり)に台尻をもっていきます。

頬まで銃を持ち上げるのはきついです。

でも頬付けだったわけです。

この点、wikipediaには次のように書いてありました。

    

日本における火縄銃が頬付け形に終始し、

肩付け形の銃床にならなかった理由には、

戦国期においては鎧武者による射撃に適さないことや

鉄砲狭間からの射掛けにおいて邪魔であるという用兵上の事情、

泰平期においては流儀による形態・射法の継承による硬直化等が指摘されているが、

従来からあった弓矢の番え方(和弓特有の引いた弦を頬に付ける方式)をそのまま火縄銃に応用した結果、

頬付け型になったという見方もあり、

そのことがいち早く日本国内での火縄銃の普及に繋がった向きも充分考えられる。

※参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%B8%84%E9%8A%83

     

    

その他、射撃の衝撃を逃がすためには、

頬付けの方が都合がいいと、

講師の林さんが教えてくれました。

撃った後、頬の横後ろに台尻を逃がし、

さらには後ろに下がりつつ、

銃を台尻を下に縦にして、台尻を地面につけるようにしたそうです。

実演もしてもらいました。

撃ち終わった後の動作については、無関心だったので、

興味津々に見ました。

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