2022年12月26日 (月)

天声人語/108年前のクリスマス休戦

     

今日は令和4年12月26日。

   

昨日の朝日新聞朝刊「天声人語」の引用です。

  

反戦の願いを込めた絵本をつくっていたら、本当の戦争が起きてし

まった。絵本作家の鈴木まもるさん(70)は今年2月、ロシアの

ウクライナ侵攻に衝撃を受けた。色鉛筆を使い、暖かみのあるタッ

チで描いた『戦争をやめた人たち』は、ほぼ完成していた▼鳥の巣

研究家でもある鈴木さんを静岡県下田市郊外に訪ねた。まきストー

ブが置かれた仕事場に、無数の鳥の巣が並ぶ。これまでの作品では

鳥や動物など「いのち」を多く扱ってきたが、対極の「戦争」をい

つか描こうと決めていたそうだ▼同作のテーマは、第1次世界大戦

中に欧州の西部戦線で実際にあった「クリスマス休戦」だ。1914

年のイブから翌日にかけ、塹壕で「きよしこの夜」を歌ったのを発

端に、敵対する独英両軍の兵士らが武器を置き、つかの間の交流を

した▼手作りのボールで興じたとされるサッカーの場面で、物語は

最高潮に達する。締めくくりは「たくさんの生命が生きているのが

地球という青い星なのです」としたが、ウクライナ侵攻で「もっと

適した表現がある」と感じた▼新たな戦争が始まったと書くか。未

来につながる言葉はないか。下書きには、何度も書いては消した跡

があった。悩んだ末の結びは「この星に、戦争はいりません」。多

様な民族衣装で手をつなぐ人々を、鳥や虫が囲む▼鳥の巣と絵本に

は卵や子どもを守り育てる共通点がある。108年前の「奇跡」を

読んで、小さな生命を守ることすら難しいウクライナの戦場を思う。

  

何からいこうか。まずはこのサイト。

東京新聞 戦争は、いらない 「クリスマス休戦」 絵本に共感広がる

1

 

サイトに絵本の表紙の写真が載っていました。

確かに暖かみのあるタッチです。

手に取ってみたい絵本です。

来年手に入れて読もう。

   

  

100年前の奇跡「クリスマス休戦」

2014年の記事でした。

100年前に「クリスマス休戦」があったことを伝え、

兵士の手紙が紹介されていました。

 

これ以上ないほど風変わりなクリスマスを過ごしました。塹壕の外

の世界にいたのなら、きっとこんなクリスマスは過ごせなかっただ

ろうと思っています。クリスマスイブはずっと、いつもどおりの銃

撃戦が、夜のあいだも相変わらず続いていました。ところが、明る

くなり始めてすぐに、双方の銃撃が少しずつおさまっていき、日の

出までにはすっかりやんでしまったのです。

そのまったくの沈黙は、とても奇妙なものでした。「この双方によ

る合意が、全面的な休戦に変わるのではないか」と考えずにはいら

れませんでした。そして、本当にそうなったのです。宙を飛び交う

銃弾がなくなったことに勇気づけられて、どちらの側でも、すぐに

兵士たちがぴょこっと頭を出しはじめ……

  

現場にいた兵士の声は説得力があります。

「この双方による合意が、全面的な休戦に変わるのではないか」

兵士は戦争が終わってほしいと思っているのです。

命をかけるほどの戦争だとは思っていなかったのかも。

そんなゆるいムードが、この奇跡を生んだのでしょう。

でも、この休戦は終わってしまい、戦争は4年続きました。

もうクリスマス休戦はなかったのです。

  

奇跡の『クリスマス休戦』を映像で再現

これも2014年の記事。

動画が紹介されていました。


YouTube: 1914 | Sainsbury's Ad | Christmas 2014

クリスマス休戦を映像化したものです。

映像の力は強し。

こんな様子だったんだろうなと想像させてくれます。

イギリスの大手スーパーマーケットのセインズベリーが

再現した映像とのこと。なんとこれはCMです。

2014年発表の時には、大評判になったようです。

newreel イギリスのセインズベリーズのクリスマスCMに クリスマス精神が戻ってきたと話題

☝ このサイトはこのサイトで、じっくり見てみたいサイトです。

  

 

最後にこのサイト。

1914年の“クリスマス休戦”を美化すべきでない理由

 

この休戦はヨーロッパ諸国が自ら始めた悲劇の真実を

まだ受け入れられていなかったことを示している。

  

まだこの戦争は大ごとにはならないと思っていた証拠というわけです。

その後、戦争は拡大し、クリスマスになっても休戦に至りませんでした。

もうそんな甘っちょろい戦争でないと認識したのでしょう。

  

ロシアによるウクライナ侵攻。

クリスマスでも砲撃は続いた。

もう「クリスマス休戦」が起こらない戦争になってしまっています。

2022年12月25日 (日)

20221211鳳来寺山/浮かばなかった松脂岩

   

今日は令和4年12月25日。

   

鳳来寺山登山報告の続き。

  

鳳来寺山の鷹打場と呼ばれる見晴らしのいい場所があります。

頂上から下ってもう少しで鷹打場だという時に、

黒い岩石が登山道に散在していることに気がつきます。

この黒い岩石。

以前調べて、このブログにも載せたと思うのに、

名前が浮かんできません。

残念なことです。

今晩、思い出します。

   

   

   

松脂岩(しょうしがん)でした。

ここでも道草 20191113報告 黒曜石か松脂岩か? 解決篇(2019年11月18日投稿)

まだ3年しか経っていないではありませんか。

鳳来寺山自然科学博物館で教えてもらっているし、

新城市大石の大石を見に行っています。

そんな体験をしているのに、

なんでエピソード記憶は働いてくれないんだと

自分の頭を小突きたくなります。

(痛いのでやりませんが)

またいつか鳳来寺山を登った時、

きっとまた松脂岩と出合うことでしょう。

その時に名前がすぐに浮かぶかどうか勝負です。  

  

  

登山後、表登山道の入り口にある茶屋で、休憩しました。

そこで食べたおしるこが美味しかったです。

充実の300円。

 

20221211鳳来寺山/最後のRICOH CX5 強運のデジカメ

    

今日は令和4年12月25日。

   

12月11日に、山仲間と鳳来寺山を登りました。

5時間ほど山の中にいました。

久々の鳳来寺山を楽しみました。

  

頂上で、あわやと言うことがありました。

頂上について、一休みをするため荷物を下ろし、

おもむろにデジカメを取り出しました。

その時に、手元からデジカメが落下してしまったのです。

坂を転げ落ちるデジカメ。

その先は崖。

ああ、もうだめだ!とあきらめた時、

デジカメが止まったのです。

何が起こったのか?

Rimg1535

ちょっとピンボケですが、現場の写真です。

中央の松の木の突起に、偶然にもデジカメのストラップがひっかかり、

デジカメはその向こうの崖を落ちなかったのです。

  

この強運のデジカメ。

遅くなりましたが、紹介したいと思います。

10月23日に中古で13800円で購入したもの。

Rimg1483

Rimg1485

PICOHのCXシリーズです。

ここでも道草 4代目RICHOのCX5/今日から使い始めます(2019年10月26日投稿)

☝ ここに書きましたが、2009年にCX1を買ってから、

CXシリーズは13年のお付き合いです。

CX5は何と5代目。

接写が魅力でずっと使い続けています。

スマホのカメラ性能が向上しているので、

そろそろデジカメも終わりかなと思いつつ、

またも買ってしまいました。

4代目は3年しか持たなかったのが残念。

この5代目がラストと思っています。

次はスマホでカメラ機能がいいのを買おうと決めていました。

  

崖から落ちなかったのは運命を感じます。

大事に使っていこうと思います。

2022年12月24日 (土)

日めくりより/シルエットのいわれ 七年戦争

    

今日は令和4年12月24日。

   

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

   

「シルエット」の生みの親は誰?

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これは面白いと思って、ここに載せました。

Wikipedia エティエンヌ・ド・シルエット

☝ ここによるとシルエットが財務大臣になったのは、

七年戦争の直後だと書いてありました。

「七年戦争」とは?

高校で勉強して以来かな。

調べてみました。

5分でわかる七年戦争!

☝ このサイトによると、

戦争の発端はオーストリアとプロイセンの戦いでした。

そしてオーストリアにはフランス、ロシア、スペイン、スウェーデンが味方になり、

プロイセンにはイギリスが味方になりました。

戦場も、ヨーロッパだけでなく、北米やインド、アフリカにも広がり、

初めての世界大戦と呼ばれるそうです。

この戦いがきっかけで、イギリスは大国にのし上がっていきます。

アメリカは独立戦争につながっていきます。

フランスは、フランス革命へとつながります。

大きな歴史の転換点になった戦争と言えるようです。

   

シルエットさんの頑張りは、あまり実を結ばなかったようですが、

名前は残りました。

2

no+e 「シルエット」の語源はフランスのある人物の名前

本「アンゲラ・メルケル」⑤ メルケル首相を一番鍛えたのはプーチン大統領

今日は令和4年12月24日。

  

前記事に引き続き、

「アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの

母になるまで」(マリオン・ヴァン・ランテルゲム著

清水珠代訳 東京書籍)から引用します。

新しいテクノロジーにはつねに反応する科学者、メルケルはSMS

の便利さに夢中になり、CDUの皆にメッセージを嵐のように送っ

た。面白いほど熱心に送信し続けるので、SMSは「ショート・メ

ルケル・サーヴィスだよね」と皆は冗談を言いあった。

(130~131p)

  

メルケルにはこんな面もあったのですね。

  

メルケルの側近には、優秀な2人の女性が仕えていました。

ベアト・バウマンとエーファ・クリスチャンセンです。

さらに3人目の女性が登場します。

  

ウルズラ・フォン・デア・ライエンです。

この本では153pに登場します。

この名前、聞いた事があるぞと思ったら、

現在のヨーロッパ委員会の委員長でした。

ちょくちょくニュースに登場していました。

Official_portrait_of_ursula_von_der

wikipedia

メルケルの内閣で、大臣を歴任した人でした。

つい年齢が気になります。64歳でした。

  

アンゲラ・メルケルは西側の有力政治家たちとは反対の方、すなわ

ち東側で世の中について学んだ。中でも彼女を鍛えた筆頭は、世界

一広大な国の指導者であり、世界のポピュリズム的ナショナリズム

の権化であり、EUの政治路線やメルケルが体現する民主主義的価

値観とあからさまに対立するウラジミール・プーチンだった。メル

ケルとプーチンは特別な関係だった。彼女は被占領国側、彼は占領

国側であり、多少の違いはあったものの、ともに独裁的共産主義政

権を知り尽くしている。彼女が東ベルリンで物理学の博士論文を準

備していた頃、彼もまた東ドイツにいて、彼女のいた場所からおよ

そ200キロメートル離れた地点を拠点にしていた。柔道の黒帯を

なったうえ、要注意人物に関する情報カードの作成に異様な熱意を

もって取り組んだプーチンは、KGB中佐の階級をもってドレスデ

ンに派遣されていた。KGBすなわち旧ソ連の情報機関には20年

近く諜報員として勤めた。

(176p)

  

さらにプーチン大統領の記述を引用します。

  

とはいえ指導者たちのうちでプーチンがもっとも敬意を払うのはメ

ルケルだった。プーチンは同じ指導者の立場にある人物には軽蔑し

か抱いていなかった。1999年から連邦政府議長(首相に相当)

あるいは大統領を務め続けている彼は、その政権掌握の長さで他を

圧倒している。任期の長さからいえばメルケルは、2003年から

トルコの最高指導者を務めるレジェップ・タイイップ・エルドアン

とともに、それほど遜色はない。プーチンにすれば、ノビチョク

(神経剤)で反対派を抹殺させることも、平和的なデモ参加者を何

年かの懲役刑に処して黙らせることも簡単なのに、2005年から

政権の座にあるメルケルが透明で民主的な手法を維持していること

は、おそらく驚きのはずだ。政敵を追放するメルケルの政治的手腕

に、プーチンは内心舌を巻いている。

(179~180p)

  

メルケル首相が引退してから、戦争を始めたプーチン大統領。

メルケル首相をもってしても、

プーチン大統領は止められなかっただろうか。

政治はけっこう真剣勝負なんだと、この本を読んで思いました。

   

メルケルがもっともよく知っているプーチンは彼女の価値観とは対

極にある人物だった。プーチンとハンガリーの首相オルバーンが一

方に、メルケルとマクロンがもう一方に位置し、彼らはヨーロッパ

において敵対する政治勢力の象徴となっている。

(181p)

  

ここでハンガリー首相のオルバーンという名前が出てきました。

勉強します。

NHK ハンガリーオルバン首相再選の背景

ハンガリーもEU加盟国です。

EUに加盟することを目指して、それがかなったのです。

しかし、加盟して、東西の格差を突きつけられています。

ハンガリーのぶどうが、スペインなどの西側の国のぶどうに

太刀打ちができないのです。

オルバーン首相は、EUがロシアの制裁で、

ロシアの天然ガス供給を減らしている中、

継続してロシアから天然ガスを供給してもらっています。

したがってガソリンも安いのです。

外国から、ハンガリーにガソリンを入れようとしても、

安い値段はハンガリーの車だけであり、

外国の車は、高値です。

自分の国中心の考え方です。

国民からは、こんなところが指示されているようです。

  

  

この本を読むことで、メルケル前首相のこともわかりましたが、

ヨーロッパのことも見えてきたと思っています。


  

本「アンゲラ・メルケル」④ 東ドイツの長所

   

今日は令和4年12月24日。

  

前記事に引き続き、

「アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの

母になるまで」(マリオン・ヴァン・ランテルゲム著

清水珠代訳 東京書籍)から引用します。

  

ポツダムの周囲に数多くある湖のひとつ、グリーブニッツ湖のほと

りの広い庭園で彼らはゆったりとお茶を飲んでいた。シュレンドル

フが率いた伝説的なバーベルスベルク映画スタジオも目と鼻の先だ。

昔の東西の境界が湖の真ん中を通っていたので、夜になるとここか

ら命がけで西側へ逃亡しようとする東ドイツ人が後を絶たなかった

ことを思い出した人もいた。監視塔が投げかける光のあいだをかい

くぐって岸から岸まで泳いで渡るのは至難の業だった。1980年

代、まさにこの場所で、自由を求めて死んだ人が18人もいたのだ。

(115p)

  

シュレンドルフは映画「ブリキの太鼓」の監督です。現在83歳。

東西冷戦がなければ、死ななくてすんだ18人です。

  

彼らはまたとない時代を迎えたと感じていた。再統一されたドイツ

にとって途方もないチャンス、二つの世界のいいとこ取りをして国

を作り変えるためのこのチャンスをどう生かすか、語り合った。皆

で力を合わせて新しい国作りを始めねばならないと考え、新生ドイ

ツ建設への貢献を模索することを集まりの目標に定めた。彼らは、

東と西で残すよう努力すべきものをひとつひとつ挙げたり、制度や

習慣についてそれぞれどちらが良いか検討したりした。西ドイツの

長所は、起業の自由、言論の自由、出版と報道の自由、民主的方法

など、すらすらと挙がった。東ドイツの方は、あまりはっきりしな

いように思われるが、じつは選ぶのに困るほどあった。助け合い、

慎ましさ、人々の間の連帯、隣近所で行なう土曜日の共同活動、無

料の保育所、職業上の男女平等などが挙げられた。

(119=120p)

  

東西ドイツの併合の時には、こんなふうに考えている人たちが

いたんだなと思いました。

いい考え方だなと思います。

   

アンゲラは、東ドイツの人間が共産主義国家の独裁政権下でどんな

苦労をしてきたかを知っていた。犠牲になる者もいれば、加害者に

なる者もいたが、大方はメルケル自身がそうであったように、どち

らでもなかった。英雄でもなく冷血漢でもなく、ただ人間味のない

受動的な態度を取らざるをえず、ちまちまと妥協をしながら、国家

権力が私的領域に介入し、個人が潜在的密告者になる全体主義機構

の煩わしさから逃れようとした。アンゲラは服従と警戒心によって

骨抜きになった人々を知っていた。

(123p)  

   

この本で、東ドイツの雰囲気が少しは見えてくるようになりました。

  

その後、2011年に発生した福島の原発事故をきっかけに、(メ

ルケルは)突如として方針を転換し、脱原発へと大きく舵を切る決

断をした。原発稼働年数延長を主張してきたCDU幹部は愕然とし

たが、メルケルはいつも通り、連邦議会の党派を説き伏せた。経済

界は怒りを浴びせた。慎重で「波風を立てないこと」が信条だった

アンゲラ・メルケルが、その経歴において珍しく大胆な決定を下し

たのはこのときが初めてである。

メルケルがふたたびこうした思い切りを見せたのは2015年、ド

イツに百万人の難民を受け入れる決断をしたときだ。福島の原発事

故後の豹変をもらたしたのは、勘と計算の両方である。原子力発電

所の爆発により人命が危険にさらされたことに衝撃を受けて反応し

たという意味で勘であり、問題に関する世論の高まりを察知し、そ

れに合わせて動くという得意技を見せたという意味で計算だったと

いえる。

(129~130p)

   

メルケル首相が視野に入ってきたのは、

この2つの決断の時だったと思います。

(あとはコロナ対策かな)

ドイツは脱原発に舵を切りました。

しかし、昨日の新聞によると、

本年度中で原発は全部止める計画は、

ウクライナとロシアの戦争の影響で、

エネルギー不足になり、延期となったようです。

政治は複雑です。

  

   

つづく

 

本「アンゲラ・メルケル」③ メルケルがメルケルになった時

      

今日は令和4年12月24日。

   

またショックなことが・・・

「アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの

母になるまで」(マリオン・ヴァン・ランテルゲム著

清水珠代訳 東京書籍)から朝から文章を引用して、

記事を1本仕上げたのですが、なぜか消滅してしまいました。

同じ記事をもう一度うつ気力はないので、

簡単に箇条書きにしておこうと思います。

  

1974年のサッカーワールドカップは、西ドイツで開催。

東西ドイツが戦うことがあった。メルケルはこの試合を見ている。

  

1988年。東ベルリンでブルース・スプリングスティーンの

コンサートが行われた。メルケルも観客の一人だった。

  

メルケルは離婚経験がある。一度目の式は教会で挙げたが、二度

目は違った。失敗したら次は違うやり方をするとメルケル。

  

メルケルは政治的な影響を受けない物理学を学ぶことに決める。

  

こんな内容でした。

気を取り直して、引用を頑張ります。

   

1977年、アンゲラは、3年前に知りあったウルリヒ・メルケ

ルという大学の友人の一人と結婚した。アンゲラはわざわざテン

プリンの両親のもとに帰り、縁のある人々を集めての祝宴を開き

教会で式を挙げたが、人生の一大事とはあまり思っていなかった。

二人は1982年に離婚した。

(74p)

  

メルケルがメルケルになったのは、この時でした。

離婚しても、彼女はメルケルを名乗りました。

  

東ドイツの日常生活には、つねに「この人は今私をスパイしてい

るのか?」という問題がつきまとった。いつ何時もこの疑念とと

もに生活しなければならなかった。

(78p)

  

東ドイツの監視社会をメルケルは体験していました。

 

メルケルが首相になったとき、二コラ・サルコジ元大統領の外交

顧問だったジャン=ダヴィッド・レヴィットは、ドイツ映画『善

き人のためのソナタ』について彼女に尋ねた。あるシュタージ職

員が反体制派と疑われる芸術家を監視するうち共感を覚えるよう

になるというストーリーで、2007年米アカデミー賞外国語映

画賞に輝いた、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク

監督による秀作である。「日常生活はあんな感じだったのですか

?」とレヴィットが聞くと、アンゲラ・メルケルは答えた。「い

いえ、あれよりもっとひどかったわ。映画みたいに、こちらが感

情移入してしまうような善良なシュタージ職員なんかいませんで

した」。

(79p)

  

この映画が観たくなりました。

監視するスパイ、シュタージはこの本の中にちょくちょく出てきます。

   

  

(トーマス)デメジエールとアンゲラは1990年4月29日に

モスクワに着いた。デメジエールはロシア語のできるアンゲラに、

生のソ連の声を拾ってくるように命じた。「バスや地下鉄に乗っ

て、町の人と話をしてほしい、ロシア人がドイツの再統一につい

てどう考えているかを知りたいんだ」。その後、アンゲラ・メル

ケルは任務を終えて戻り、ひと言で報告した。「『スターリンは

第二次世界大戦に勝ったが、ゴルバチョフは負けようとしている

(スターリンが勝って手にしたものをゴルバチョフがみすみす逃

そうとしている)』とロシア人は言っています」自宅のアパート

で、デメジエールはこの深い言葉をあらためてかみしめていた。

「今でもロシア人はそんな風に感じていると思います。ヨーロッ

パ人はゴルバチョフが大好きですが、ロシア人は大嫌い。そのぶ

んプーチンが好きなんです。プーチンがやり返しているという印

象がありますからね」

(100~101p)

  

ゴルバチョフさんは西側諸国、そして日本でも評判のいい人です。

それなのに、ロシア本国では不人気なのですね。

ゴルバチョフさんが亡くなられた時のロシア人の反応は、

それを物語っていました。

   

  

漁師たちは新人候補アンゲラに不安を打ち明けた。魚の価格や漁

獲可能量割当てといった新たな問題が持ち上がっていた。アンゲ

ラはメモも取らず話を聞き、「皆さんの問題は肝に銘じて持ち帰

ります。何もお約束はできませんが、何ができるか検討します」

との言葉を残して立ち去った。

(112p)

  

これがメルケルだそうです。簡単に約束はしない。

小さな約束をして、大きな成果をあげるのが、メルケルの主義です。

   

つづく

2022年12月23日 (金)

本「アンゲラ・メルケル」② 「彼女は労をいとわなかった」

     

今日は令和4年12月23日。

  

前投稿のつづき。

  

「アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの

母になるまで」(マリオン・ヴァン・ランテルゲム著

清水珠代訳 東京書籍)より。

  

一人の出席者が「50年後の歴史書にどのように書かれたいです

か?」と尋ねたところ、メルケルは「彼女は労をいとわなかった」

と、はっとするようなひと言を返しただけだった。

(15p)

   

いいですね、このセリフ。

私もこう言いたいな。

歴史書には載らないけど、

その時その時、できることは労をいとわずに、

やってきたよなと思いたい。

思ってもいいでしょ。

死に際には言いたいです。

自分をこの点で肯定して死にたいですね。

  

アンゲラ・メルケルは言葉を大切にする指導者であり、コミュニケ

ーションより事実を求める。できることを約束する愚を彼女が犯し

たことはない。メルケルは「骨の折れる」民主主義の実践を行った

ことになるだろう。この表現はもっとも英雄的な闘士の一人だった

チェコスロバキアの元大統領ヴァ―ツラフ・ハヴェルのものだ。「

民主主義が元来持つ難点は、真摯に受けとめない者にほとんど何も

かも許すいっぽうで、誠実に実践する者にはきわめて骨の折れる仕

事であるということだ」。アンゲラ・メルケルは権力の行使に苦心

し骨を折った。彼女は自由の価値を誰よりも知っていたからだ。シ

ニスム(冷笑主義)よりもモラル、原理、法治国家、ヨーロッパの

統一といった気の重い事柄を選び、骨を折った。彼女は平和と民主

主義がどれほど手の届かないものか誰よりも知っていたからだ。メ

ルケルは本質的に、そしてきわめてアンチ・トランプ、アンチ・ジ

ョンソン、アンチ・ポピュリズム派だったことになるだろう。

(20p)

   

メルケルに興味を持ったのは、この点だと思うのです。

民主主義が当然行き着くところだと思っていたのですが、

世界の国々は必ずしもそうはなっていません。

でも東ドイツを体験しているメルケルは、

自由や民主主義が大事なものだとわかっていて、

それを実現しようとした人だったからでしょう。

    

つづく

本「アンゲラ・メルケル」① コソボ紛争とは?

       

今日は令和4年12月23日。

   

この本を読みました。

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amazon

「アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの

母になるまで」(マリオン・ヴァン・ランテルゲム著

清水珠代訳 東京書籍)

     

2005年11月から2021年12月まで、

ドイツの首相を務めたメルケル首相。

現在68歳。

ふと興味をもち、この本を手に入れ、読んでみました。

  

さっそく脱線します。

10pにコソボ紛争のことが書かれていました。

サッカーW杯で、セルビアのストイコビッチ監督が

コソボをののしることを言ったとニュースで見ました。

「クソッタレ!」ストイコビッチ監督が興奮し問題発言

ストイコビッチと言えば、名古屋グランパスに所属して活躍。

その時は、私もJリーグをよく見ており、

素晴らしい人だなあと思っていました。

その素晴らしい人が、ののしるなんて、

セルビアとコソボはどういう関係なんだと思っていました。

そしたらこの本にコソボが登場。

  

コソヴォはアルバニア人が圧倒的多数を占める地域だったが、当時

はセルビアの領土に属していた。セルビアはコソヴォの独立を認め

ようとせず、民族浄化を繰り広げていた。

(10p)

   

コソボ紛争は聞いた事はありますが、よく覚えていません。

勉強しました。

コソボ紛争 原因などをわかりやすく解説

このサイトをじっくり読みました。

1998年~1999年に起こった紛争でした。

ユーゴスラビアの一部であったセルビアの、

そのまた一部であったコソボは、

アルバニア人が90%を占める場所でした。

そこにアルバニア人が住むようになったのは、

オスマントルコの政策でした。

しかしその場所は、セルビアの聖地でした。

セルビアはキリスト教であり、

由緒ある建造物がコソボにあったのです。

そしてコソボに住むアルバニア人はイスラム教でした。

セルビアは、コソボに住むアルバニア人が許せなかったのです。

そして、コソボに住むアルバニア人は、

セルビアから独立したかったのです。

この状況で紛争が起こりました。

オスマントルコがまいた種が、ひどい状況を招いてしまいました。

NATOはコソボのアルバニア人に味方をします。

多くの血が流れ、紛争は終結します。

コソボは2008年に独立します。コソボ共和国。

しかし、その独立を認めていない国もあります。

セルビアは認めていません。

今も、セルビアの一部とみなしています。

ストイコビッチ監督が、コソボのことをののしった背景が見えてきました。

日本は、コソボ共和国を独立国と認めているのか。

認めていました。

学校で使っている地図帳には、

ちゃんとコソボが独立したようになっています。

   

コソボ紛争の頃、メルケルは、ドイツの政党の党首になるべく、

策略を行っていました。

現党首を追い落とし、その後に就こうとしていました。

その策略は成功して、メルケルは党首となります。

メルケルにはこのような面もあるのだと知りました。

  

つづく  

2022年12月19日 (月)

いろいろなSOME KIND OF WONDERFULL

     

今日は令和4年12月19日。

   

贅沢に、ライナーノーツを読みながら、

ロッド・スチュワートのアルバム「ヘラクレスの涙」を

ゆっくり聴きました。

  

4曲目のSOME KIND OF WONDERFULLの曲説明に

注目しました。

  

ウェスト・ヴァージニア出身のソングライター/ヴォーカリストの

ジョン・エリソンがニューヨークで遭遇した五人組に加入したのが

ソウル・ブラザーズ・シックスであり、彼らがアトランティック・

レコードから放った61年のヒット(全米第91位)がオリジナル

だ。75年にグランド・ファンク(・レイルロード)が全米第3位

としてロック・ファンにも知られ(当時の邦題「オー・ワンダフル」)、

ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースもカヴァー企画『バック・トゥ・

ザ・ルーツ~グレート・アメリカン・ソングス・トリビュート』(94年)

で取り上げている(全米第44位)。ロッドの後輩と呼べるイギリ

スのブルー・アイド・ソウル・シンガー=ポール・ヤングもQティッ

プス時代の80年にカヴァーした。

   

この文章で驚いたのは、1961年に発表した曲が、

歌い継がれているということです。

私の生まれた時の曲です。

日本ではそんなことあるのかな。

ちょうど、坂本九の「上を向いて歩こう」が

1961年発表の曲でした。

う~ん、ありえるか。

  

ネットのすごさ。

オリジナルの曲は聴けませんでしたが、

グランド・ファンク・レイルロード、

ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、

Qティップスバージョンの同じ曲が聴けてしまいます。


YouTube: Grand Funk Railroad - Some Kind of Wonderful


YouTube: Huey Lewis & The News - Some Kind of Wonderful


YouTube: Some Kinda Wonderful

 

そしてロッド・スチュワートの歌も、

ちょっと異色の動画で聴くことができますよ。

Some Kind Of Wonderful - Line Dance (Dance & Teach in English & 中文)

  

聴きくらべるのは楽しい。

欧米のロック歌手は、こんな曲を好むんだ。

私も好きになりそうです。

   

ポール・ヤングとか、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースは、

1980年代に聴いていたなあ。

私にとって、その期間、今では考えられないほど、

レコードを買って、そしてレンタルレコード屋で借りて、

洋楽を聴いていた時代です。

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