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2023年11月 4日 (土)

本「日本国紀 下」/日露戦争の影響 新聞が煽る・国民が誘導される 韓国併合時に日本がやったこと

   

今日は令和5年11月4日。

  

前記事に引き続いて、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

日露戦争で日本が勝利した時のことです。

  

十六歳の時に日本の勝利を聞いた後のインドのネルー首相は、こう語

っています。「自分たちだって決意と努力しだいではやれない筈がな

いと思うようになった。そのことが今日に至るまで私の一生をインド

独立に捧げさせることになったのだ」

ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動家で初代首相のバー・モウは回

想録『ビルマの夜明け』で、その時の気持ちを次のように書いていま

す。「私は今でも、日露戦争と、日本が勝利を得たことを聞いたとき

の感動を思い起こすことができる。私は当時、小学校に通う幼い少年

に過ぎなかったが、その感動はあまりに広く行きわたっていたので、

幼い者をもとりこにした」

トルコでは子供に「トーゴー」や「ノギ」(旅順攻防戦の指揮官、乃

木希典大将の名前)と名付けることが流行り、後にトルコ青年らが起

こすオスマン帝国の圧政へのレジスタンスにも大きな影響を与えたと

いわれています。同じくロシアの侵略に苦しんできたポーランドなど

東欧諸国でも独立運動の気運が高まりました。 また長らく欧米の植

民地にされてきた中東やアフリカの人々にも大きな自信を与え、これ

以降、世界の植民地で民族運動が高まることになります。まさに「日

露戦争」こそ、その後の世界秩序を塗り替える端緒となった大事件だ

ったのです。

しかし列強諸国の受け止め方は違いました。日露戦争当時、ヨーロッ

パにいた孫文(中華民国初代臨時大総統)は、バルチック艦隊が日本の

聯合艦隊によって潰滅させられたニュースが届いた時のことをこう語

っています。

「この消息がヨーロッパに伝わると、ヨーロッパの人民は、みなその

ため両親をなくしたように悲しみました。 イギリスは、日本と同盟

を結んでいましたが、イギリス人もこの消息を聞くと、たいていの人

は、首をふり眉をひそめて、日本が大勝利を収めたことは、結局、白

人にとり、不幸な出来事だと、考えました」(『孫文選集』大正一三

年【一九二四】十一月二十八日神戸での講演より)

列強諸国の間で日本に対する警戒心が強まったのも、この頃からでし

た。歴史を俯瞰すると、その流れは強まったり弱まったりを繰り返し

ながら、次第に大きくなっていくのが見てとれます。

(123〜125p)

  

日露戦争での日本の勝利が、世界に影響力があったことがわかります。

そして、白人の有色人種(日本を含む)に対する蔑視。

この本でも、何度か出てきます。

今でもあるんだろうなあ。

  

日露戦争では約八万人という、日本の歴史上、最多の戦死者(日清戦

争の約六倍)を出したのです。国民からすれば、これほどの犠牲を払っ

て勝利したにもかかわらず、何の見返りもないのは許せないという気

持ちだったのでしょう。また新聞社が政府の弱腰を叩いたことも作用

して、世論は政府非難一色となりました。当時の朝日新聞は九月一日、

「大々屈辱」「講和憤慨」「日本政府自ら日本国民を侮辱するに当る」

などという強烈な記事を載せています。

こうした記事が出た後、全国各地で「閣僚と元老を辞めさせ、講和条

約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という主張を掲げた集会

が行なわれるようになります。

九月五日には、東京の日比谷公園で、条約に反対する国民集会が行な

われましたが、民衆が暴徒と化し、内務大臣官邸や周辺の警察署、派

出所を襲撃し、東京市内の十三カ所に火が付けられました。この時、

講和条約に賛成した国民新聞社は暴徒に焼き打ちされています。東京

は無政府状態となり、翌日、政府は戒厳令(緊急勅令による行政戒厳)

を敷いて近衛師団 (天皇と皇居を警衛する師団)が出動し、ようやく鎮

圧しました。死者十七人、負傷者五百人以上、検挙者二千人以上とい

う凄まじい暴動でした。この事件は「日比谷焼打事件」と呼ばれてい

ます。

私は、この事件が、様々な意味で日本の分水嶺となった出来事である

と見ています。すなわち、「新聞社 (メディア)が戦争を煽り、国民世

論を誘導した」事件であり、「新聞社に煽動された国民自らが戦争を

望んだ」、そのきっかけとなった事件でもあったのです。この流れは、

大正に入って鎮火したように見えましたが、昭和に入って再燃し、日

本が大東亜戦争になだれ込む一因ともなりました。

(129〜130p)

   

太平洋戦争が始まった大きな理由は、新聞社が戦争を煽り、

国民世論を誘導したのが大きい。

以前、そんなことを勉強したことがあります。

それは日露戦争後の日本で起こっていたことなのですね。

情報不足の国民としては、数少ない情報提供者の新聞を

信じて動いてしまうのですね。

現在はいろいろなメディアがあるから大丈夫か?

偏った情報の得方をしていると、危険だとは思いますね。

 

 

余談になりますが、大東亜戦争後に誕生した韓国は、併合時代に日本

から様々なものを奪われたと主張していますが、そのほとんどは言い

がかりに近いもので、むしろ日本は朝鮮半島に凄まじいまでの資金を

投入して、近代化に大きく貢献しました。列強が植民地に多額の資本

を投じて近代化を促進させた例はほとんどありません。

日本の朝鮮統治における近代化政策の例をいくつか挙げると、併合前

まで百校ほどしかなかった小学校を四千二百七十一校に増やし、全国

の児童に義務教育を施し、10パーセント程度であった国民の識字率

を六〇パーセントにまで引き上げています。ハングルを普及させたの

も日本です。

また全土がほぼはげ山だったところに約六億本もの木を植え、鴨緑江

には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至るところに鉄道網を

敷き、工場を建てました。 新たな農地を開拓し、灌漑を行ない、耕地

面積を倍にしました。それにより米の収穫量を増やし、三十年足らず

で人口を約二倍に増やしたのです。同時に二十四歳だった平均寿命を

四十二歳にまで延ばしました。厳しい身分制度や奴隷制度、おぞまし

い刑罰などを廃止しました。これらのどこが収奪だというのでしょう

か。

(132〜133p)

   

朝鮮のハゲ山を、日本人が植林した。

本当だろうか。

1945年への道 「ハゲ山を緑にした」は本当か

このサイトによると、緑は増やそうとしたが、

それほどの成果は上がらなかったようです。

note. はげ山の真実 日帝が朝鮮をはげ山 にしたって本当!?

朝鮮の山をハゲ山にしたのは、日本のせいだという説もあるが、

それは誤りだと書いています。

災害防止のために、植林は行われましたが、

需要が上回っていたために、成果が出なかったそうです。  

  

本を読んだことがきっかけで、さらに勉強ができます。

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