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2022年9月

2022年9月 2日 (金)

「定本納棺夫日記」② 生死の生と死の割合

   

今日は令和4年9月2日。

  

前記事に引き続き、

「定本納棺夫日記」(青木新門著/桂書房)より。

  

しかしみぞれもその時その時の気温によって雪と雨の割合が変化す

るように、生死の生と死の割合もその時代背景によって左右されて

きた。たとえば戦乱に明け暮れた時代とか大飢饉や疫病が蔓延した

時代には、死の占める割合が多かった。そして死の占める割合が多

い時代では、死は多く語られ、時には美化される傾向にあり、今日

のように日常生活の中にも思想の中にも死が見当たらないような生

の時代には、死は隠蔽され、死は敗北であり悪であるとする傾向に

ある。

死は忌むべき悪としてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、

誰もが必ず死ぬという事実の前で、絶望的な矛盾に直面することで

ある。

他人の死に出遭っても、一時的に愛情の念が起きるだけで、日ごろ

自らの中に死を認知していないため、他者の死は他者の死であって、

他人の死は仏教でいう機縁とはなり得なくなっている。

たとえば「・・・・朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり

・・・・」と蓮如の『白骨の章』を読み上げても、ほとんどの人は

心に響かなくなっている。

(35p)

  

この文章も、ただ読んだだけで終えたくない文章です。

死が美化されると言えば、戦国時代や太平洋戦争では、

美化された死があったことを思い浮かべます。

今の時代には、とんと聞きません。

  

「仏教でいう機縁」とは?

生活の中の仏教用語 機縁

ここを読んでみました。

この文章が大事か。

  

人間は一人では生きられない。そこで「これも何かの御縁です」、

「これを機縁に」と言い、人とお付き合いをしながら日々暮らして

いる。ただ一度のお付き合いもあり、何度も顔を合わせる場合もあ

る。人生において出会いの回数は必ずしも問題ではなく、僅かな値

遇であっても、それが縁となって開眼し、人生の方向が定まること

もある。

   

人の死に出合って、自分の死について考える機会に

なるといいということか。

自分の死は遠いものと考え、積極的に考えないようにするのが現状かな。

  

蓮如の言葉。

コトバンク

☝ ここには次のように書いてあります。

  

この世をわがもの顔に誇る若者の血色のよい顔も、たちまちに白骨

となって朽ち果てるの意で、生死の測り知れないこと、世の無常な

ことにいう。

   

そうなんだよな。

今日は腰痛はあるものの、死とは遠いと思っている自分も、

もしかしたら明日には生きていないかもしれない。

そんなことは考えたくないと思ってしまいます。

「定本納棺夫日記」① ケガレとハレ

     

今日は令和4年9月2日。

   

この本を読みました。

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「定本納棺夫日記」(青木新門著/桂書房)

  

青木山門さんの訃報を見たのが、読むきっかけになった本。

ここでも道草 訃報 青木新門(2022年8月9日投稿)

  

「納棺夫日記」はその通り、日記であり、ストーリーがあるものでは

ありませんでした。

死者を湯灌・納棺する仕事をするにあたって、

死者と死者を取り巻く人たちと接することから

気づいたことや思ったことを綴った本でした。

親鸞に関して力説している箇所は、う~ん半分くらいの理解かな。

   

引用していきます。

  

この「ケガレ」の内容は、既に古代の「延喜式」の中に細かく規定

されている。その中でも特に死穢(しえ)と血穢(けつえ)はケガ

レの最たるものとされている。

死穢とは、死や死者を不浄なものとしてとらえ、死や死者に纏わる

一切のものは不浄なものと忌諱(きき)の対象とされた。また血穢

は、怪我などの出血の「ケガ」の意味もあるが、女の出血(月経)

の穢れが強調され、やがて女性そのものが穢れた存在とされてゆく。

また今日でも、糞尿のことを汚穢(おわい)という地方があったり、

便所のことを御不浄と言ったりしているように、糞尿もまたケガレ

の対象であった。

これらケガレから逃れることが、人々の最大の関心事であった。見

えないように遠ざけたり、一線を引いて隔離したり、女人禁制にし

たり、ありとあらゆる努力をするのである。

しかしどうしても隔離したり遠ざけたりできない場合がある。そん

なときは不浄やケガレを浄化する儀式としてオハライやキヨメを行

い、一瞬にして「ハレ」に転換するのである。

ハレとは晴れの日や晴れ着のハレであって、清浄な神聖な状態のこ

とをいう。

このケガレとハレとの関係において、清められた大相撲の土俵へは

女性は上がれなくなり、比叡山はもちろん、富士山や立山や白山な

どの霊山も女人禁制となる。

死者が出れば、忌中の紙を張り、火葬場から戻れば、清めの塩で清

める。これもまた、ケガレとハレから派生した事例である。

(31~32p)

   

ケガレとハレの関係を知ることができました。

なぜ清めるのに塩なのかという理由は、

続きの文章で知ることができました。

  

なぜキヨメに塩なのかという問いに、『古事記』の神話によるとす

る説もある。それはイザナギノミコトが黄泉の国(死の国)からこ

の世に帰ってきた時、黄泉の国は不浄の世界であったと告げ、穢れ

た体を海水で清めたとされている。すべてがこの『古事記』の記述

によって、海水を塩と水に分けた形で、今日まで千数百年も継承さ

れている。

大相撲の塩と水、葬式の清めの塩と手桶水、料亭などの打ち水と塩

といった具合で、塩と水はケガレをハレに転換する小道具として、

日本神道の神事とともに厳然と生き残っている。実に根深いのであ

る。理屈や何かで解決できる問題ではない。

「穢らわしい」と妻に叫ばれ、寝つけないまま古い書物をペラペラ

めくっていた。

(32p)

   

古事記によって、塩と水で清めるという説があるのですね。

今まで、何も考えずに、葬式帰りに塩を体に振っていました。

理由を知って振るのでは、大きく違います。

歴史の上にいることを感じます。

  

  

鉛色の空からは、絶え間なくみぞれが落ちてくる。このみぞれに濡

れたうら寒いモノクロ風景こそが、この地方特有の貌(かお)なの

である。

気象が風土の貌を作ってゆく。山に雪が降っているのではなく、雪

が山を描いてゆく。

みぞれが降り始めたら、北陸に住む人々は冬が来たと実感する。

(34p)

  

青木新門さんの故郷は富山県です。

「雪が山を描いていく」という表現が強く印象に残りました。

確かにそうであり、雪によって山が描かれた時に、

冬山シーズンが来たことを感じます。

気象が風土の貌を作っているのですね。

  

 

  

2022年9月 1日 (木)

日めくりより/It's raining cats and dogs

今日は令和4年9月1日。

  

天気が不安定です。

昨日の朝は出勤時が猛烈な雨。

駐車場から職員玄関までおよそ100m。

大雨のために、いつもは難なく歩ける場所が

川になっていたり、池になっていたり。

いつものコースで歩けません。

浅瀬を探して、あちこちコースを変更して、

進みました。

あと少しのところで、大きな池に遭遇。

校舎と弓道場にはさまれた狭い区間が全面池。

「だめじゃん!」とつぶやいてしまいました。

それでもと、弓道場のフェンスにつかまって、

蟹の横ばい。(登山用語ですね)

見ている人がいたら、滑稽だったと思います。

靴は、少しは濡れたけど、水没は免れました。

  

そんな日の日めくりがよかった。

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

  

「猫と犬」がなぜ「どしゃぶりの雨」?

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It's raining cats and dogs

これについて英語の先生と話をしてみたいです。

  

  

昨日で夏休みは終了。

ここでも道草 夏休み1本目(2022年7月20日投稿)

☝ この記事で、夏休み中に100本投稿したいと書きました。

結果は、85本でした。ちょっと足りなかったけど、

まあまあ好きなことをやって、充電できたかなと思っています。

昨日は、朝から夕方まで、ずっと生徒の宿題ノートに

赤ペンでコメントを書いていました。

またこういう生活が始まりました。

これも楽しい。
  

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