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2021年12月 5日 (日)

「線量計と奥の細道」⑤ 2016年の糸魚川での大火

    

今日は令和3年12月5日。

   

前記事に引き続いて、

「線量計と奥の細道」(ドリアン助川著/集英社文庫)より

引用していきます。

   

  

人生は出会いと別れの連続だ。その後(奥の細道旅行以後)の芭蕉は

伊勢や京都へ足を運び、また江戸に戻るなど、ひとつの地に安住する

ことがない日々を送る。そして元禄七(1694)年、門人のトラブ

ルを仲裁に出かけた大坂で体調を崩し、その人生を終えることになる。

50歳だった。私と同い年で世を去ったのだ。

(356~357p)

    

岩崎弥太郎、五代友厚がともに50歳ほどで亡くなったことを

先日書きました。

松尾芭蕉も50歳だったのです。

長寿の時代に生きる自分は幸運だと思って、

まだまだ頑張って生きたいと思うのです。

まだ60歳代は心身ともにやりたいことができます。

  

  

一方で、こんなこともあった。2016年12月、糸魚川が大火に

飲まれた。一軒の店舗を火元とする火災だったが、強風により延焼

が拡大し、JR糸魚川駅の北側から海浜にいたるまでの市の中心部

が焼失した。人的被害がなかったことは不幸中の幸いだったが、家

屋を失った人々だけではなく、多くのみなさんが厳しい状況に追い

こまれた。宴会や祝いごとなどの自粛ムードが起き、いっさいの商

売が止まってしまったのだ。特に、飲食店や酒屋への影響は大きか

った。大火があったところへ行くべきではない。そんな場所で酒を

飲むのは不謹慎ではないか。そうした意識が新潟県の内外を問わず

生れてしまった。年末年始をまたいでもビールケースひとつ売れな

い。商店主はみな追いつめられた。

そこで、プラムさんと相談して、あることを企てた。燃えてしまっ

た繁華街は仕方ないが、それ以外の店はお客さんを待ちわびている。

不謹慎でもなんでもありません。糸魚川を旅しておいしいものを食

べよう。お酒を飲もう。ネット上でそう呼びかけてツアーを組んだ

のだ。その結果、大型バスをチャーターするだけのお客さんが全国

から集まった。いわば、食べて飲むだけのボランティアである。プ

ラムさんは身を粉にして働き、宿泊先の手配から糸魚川各地の旅ガ

イドまでをすべてやって下さった。そして宴席には、糸魚川が誇る

酒の数々や、「あぐりいといがわ」の珠玉のトマトジュースなどを

大量に提供して下さった。お客さんはみなプラムさんのホスピタリ

ティーに感動し、谷村美術館の仏像に圧倒され、ブラック焼きそば

のとりこになり、一人一人が糸魚川をしっかりと胸に刻んだのだっ

た。プラムさんがいる限り、糸魚川からは光が射し続ける。

(375~376p)

   

2016年の糸魚川の大火はうっすらと覚えています。

でもこのブログでは取り上げていません。

この文章を読んで、将来糸魚川に行くことがあったら、

糸魚川では最近こういうことがあったという歴史として

ちゃんと知って出向きたいなと思いました。

  

   

数えきれない(東日本大震災)の被災者が、デモに訴えるわけでもな

く、テロに走るわけでもなく、ただおのれの手を見ながら立ち上がり、

生活の再建に向けて汗を流している。まさにもの言わぬみなさんの毎

日の努力が、復興基盤の本質なのだ。

だからこそ私は言葉をもって訴えたい。

無言の人々が我慢を重ねている状態に、為政者は寄りかかるべきでは

ない。権力を持った者たちは、訴えようとしない人たちの心の声を把

握するべきだ。

(377p)

   

この文章を後に、筆者は、原子力発電所が本当に危険な場所に

設置されている実態を書いている。そして「あとがき」の最後に

次のように書いています。

   

芭蕉と曾良の旅から300余年。象潟が陸地になったように、日本列

島は方々で形を変えている。世界一の活断層の巣であり、薄皮一枚下

はプレートが複雑にうごめき合っているのがこの列島の正体なのだ。

数えきれないほどの大地震の歴史と、実際に起きた原発事故から、私

たちはなにを学んだのか。危機はすぐ目の前にある。

(378p)

   

ドリアン助川さんの主張は明確です。

もう原子力発電は日本では無理。止めましょう。

被災した人たちを見て、被災した場所の線量計を見て、

そう思ったのでしょう。

  

   

富岡町や大熊町など、かつての強制避難地域への住民の帰還問題も

ある。政府にしてみれば、汚染されていた福島の浜通りに住民たち

が戻ってきた、線量がさがったのです、もう安心ですよ、なんの問

題もありませんよとアピールをする腹づもりなのだろう。

しかし、帰還の目処となる基準値は、チェルノブイリの現在の強制

移住基準値である年間5ミリシーベルトを越える20ミリシーベル

トに設定されている。第一原発が事故を起こすまでは、環境省が指

定した基準値は年間1ミリシーベルトだった。それが突然、20ミ

リシーベルトまで引き上げられたのだ。多くの被災者は、暴投でも

ストライクとなりそうなこの無茶なカラクリを知っている。政府が

理想とする帰還劇など進むはずがないのだ。20ミリシーベルト基

準ならおそらく問題は起きませんと御用学者が希望的観測を語った

ところで、将来に於ける保障はなにもないのだから。

(385~386p)

   

実際に富岡町や大熊町に行ってみて、

帰還は進んでいないことを実感しました。

まだ問題が山積みのところに、

私はのこのこ行ったのだなと思いました。

  

  

以上で「線量計と奥の細道」からの引用を終えます。

  

  

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