「がんになって良かった」と言いたい②
今日は令和3年6月26日。
前記事に引き続き、
「『がんになって良かった』と言いたい」
(山口雄也・木内岳志著/徳間書店)
より引用していきます。
今生きるという行為は未来のための投資だと思っていた。道を外れ
ることは未来を壊滅させるに等しかった。そんなとき、寄り道こそ
が人生なんだ、と教えてくれた大人がいた。何人もいた。
それぞれ、切り口は全く違った。会社員や青年海外協力隊を経て教
師になられた恩師。もう時効だからといって大学で驚くほど留年し
た話をしてくれた小学校の先生と大学の教授。人生を達観したよう
な顔つきの元学年主任。塾の先生。
そして一浪一留を今になって打ち明けた親父。
地道に生きよう。そう強く思った。駆け足もいいけれど、何か美し
い景色を見逃してしまいそうな気がする。そうそう、「地道」はも
ともと馬術用語らしい。馬の乗り方のうち最も速いのが「駆け」、
次に「のり」、そして最も遅い並み足が「地道」だそうだ。「駆け」
では道端の一輪の花に気づけないだろうし、寄り道もうまくできな
い。「地道」で歩を進める。
(69~70p)
「地道」のいわれを聞いて、なるほどと思いました。
「地道」に歩を進めることに賛成です。
寄り道をたくさんして今に至っていると思っています。
「道草」という言葉は、私にとっては特別な気持ちを
起こさせてくれる言葉です。
毎日小さな道草をして、人生でも道草をしたいです。
その大きなきっかけが来年の4月からの生活です。
人の死が残酷であるのは、長い歳月が、その人が生きたという記憶
を抹消するがゆえのことである。散った生命が再び花咲くことは決
してない。そうした記憶から消されたものは、その時点において二
度目の死を迎える。これは恒久的な死である。永年の冬である。
人が死を恐れるのは、死が不可逆ゆえではないと思う。少なくとも
自分の場合、初めはそうであったものの、入院生活を送る中で変わ
ってきた。最も恐るべきは「忘れられること」であった。「わたし」
が生きたという証しさえも土に還ることを、恐れていた。あなたに
会えないことよりも、あなたに忘れられることの方が恐ろしい。生
きたことが忘れられたとき、「わたし」はその人にとって存在しな
かったことになる。その人を忘れたとき、あなたは無意識にその人
を殺している。
それでも、いつかは忘れられるものだ。どう足掻こうと生命はいつ
か失われる運命にあるし、その生命の記憶もやがては消されてしま
う。恐るべき忘却力をもって。一度目の死も二度目の死も、避けて
は通れない。そして人々が恐れるのは、一度目の死を超えたところ
にある二度目の死である。
(92~93p)
「二度目の死」については以前にも聞いた話です。
でも山口さんが体験に基づいての発言だけに説得力があります。
つづく
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