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2021年3月21日 (日)

「この国の不寛容の果てに」② 70~80年代の障害者

   

今日は令和3年3月21日。

   

前記事に引き続いて、

「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

(雨宮処凜編著/大月書店)より。

  

  

熊谷晋一郎さんと雨宮処凜さんとの対談

   

熊谷:私は生まれつき脳性麻痺という障害を持っています。脳性麻

痺の中でも痙直(けいちょく)型と呼ばれるもので、発話には支障

がないのですが、常に身体が緊張していて思い通り動かせない障害

です。

私は1977年生まれですが、当時は脳性麻痺の子が生まれると、

徹底したリハビリをさせて、できるかぎり健常者に近づけようとい

う風潮がありました。特訓して、健常者と同じように動けるように

なれた子は地域で暮らせる。それができなかったら、人里離れた入

所施設に入って、ずっとそこで暮らす。そういう選別というか、健

常者のように暮らせるかどうかは努力しだいという雰囲気が、医療

者にも家族の中にもはっきりと存在したと思います。

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70年代には、医療者の間でも「脳性麻痺でも早くからリハビリを

すれば9割以上は治る」というのが信じられていたのです。ところ

が80年代になって、そうしたリハビリには効果がないというエビ

デンスがだんだん積み重なってきました。リハビリをしてもしなく

ても、動けるようになる人もいるし、動けないままの人もいること

が科学的にわかってきたのです。

それに代わって登場してきたのが障害者運動です。(中略)80年

代にそれが大きく花開いた。そこでは「変わるべきは個人ではなく

社会のほうだ」と主張されました。当事者が積極的に要求をかかげ、

社会をより包摂的なものに変えていこういう運動でした。(中略)

その中で確立された理念のひとつが「医学モデルから社会モデルへ」

というものです。「障害」とは個人の皮膚の内側にある性質ではな

く、皮膚の外側、つまり社会のありかたに起因するのだということ

です。たとえば、車いすの人が階段を登れないのは、その人の足に

問題があるのではなく、エレベーターのない建物に問題があるのだ

と考える。そこからバリアフリーという理念が生まれ、80年代の

障害者運動の大きな追い風になりました。

(27%)

  

1970年代~80年代は体験した時代。

障害者に関してこのような歴史があったのですね。

  

  

知的障害者は「語れない」という誤解

(31%)

熊谷:植松被告が語ったと言われるように「コミュニケーションの

とれない人には生きている価値がない」という見方に対しては、む

しろ「それを読み取れないあなた側に問題があるかもしれないでは

ないか」と言うこともできます。コミュニケーションとは双方向の

ものですから、送信者と受信者がいます。表現されたものを受信者

が理解できなかったとしても、送信者側だけに落ち度があるとは言

えません。社会の側に、それを正しく理解できる回路がなかったか

らだとも言える。

(31%)

    

受信者側にも問題があるというのは、大事な視点です。

熊谷さんはこうも言っています。

  

熊谷:知的障害者に「自分を表現できない人」というレッテルを貼

ることは、言ってみれば植松被告と同じところにおちいってしまっ

ているのです。

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