「この国の不寛容の果てに」② 70~80年代の障害者
今日は令和3年3月21日。
前記事に引き続いて、
「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」
(雨宮処凜編著/大月書店)より。
熊谷晋一郎さんと雨宮処凜さんとの対談
熊谷:私は生まれつき脳性麻痺という障害を持っています。脳性麻
痺の中でも痙直(けいちょく)型と呼ばれるもので、発話には支障
がないのですが、常に身体が緊張していて思い通り動かせない障害
です。
私は1977年生まれですが、当時は脳性麻痺の子が生まれると、
徹底したリハビリをさせて、できるかぎり健常者に近づけようとい
う風潮がありました。特訓して、健常者と同じように動けるように
なれた子は地域で暮らせる。それができなかったら、人里離れた入
所施設に入って、ずっとそこで暮らす。そういう選別というか、健
常者のように暮らせるかどうかは努力しだいという雰囲気が、医療
者にも家族の中にもはっきりと存在したと思います。
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70年代には、医療者の間でも「脳性麻痺でも早くからリハビリを
すれば9割以上は治る」というのが信じられていたのです。ところ
が80年代になって、そうしたリハビリには効果がないというエビ
デンスがだんだん積み重なってきました。リハビリをしてもしなく
ても、動けるようになる人もいるし、動けないままの人もいること
が科学的にわかってきたのです。
それに代わって登場してきたのが障害者運動です。(中略)80年
代にそれが大きく花開いた。そこでは「変わるべきは個人ではなく
社会のほうだ」と主張されました。当事者が積極的に要求をかかげ、
社会をより包摂的なものに変えていこういう運動でした。(中略)
その中で確立された理念のひとつが「医学モデルから社会モデルへ」
というものです。「障害」とは個人の皮膚の内側にある性質ではな
く、皮膚の外側、つまり社会のありかたに起因するのだということ
です。たとえば、車いすの人が階段を登れないのは、その人の足に
問題があるのではなく、エレベーターのない建物に問題があるのだ
と考える。そこからバリアフリーという理念が生まれ、80年代の
障害者運動の大きな追い風になりました。
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1970年代~80年代は体験した時代。
障害者に関してこのような歴史があったのですね。
知的障害者は「語れない」という誤解
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熊谷:植松被告が語ったと言われるように「コミュニケーションの
とれない人には生きている価値がない」という見方に対しては、む
しろ「それを読み取れないあなた側に問題があるかもしれないでは
ないか」と言うこともできます。コミュニケーションとは双方向の
ものですから、送信者と受信者がいます。表現されたものを受信者
が理解できなかったとしても、送信者側だけに落ち度があるとは言
えません。社会の側に、それを正しく理解できる回路がなかったか
らだとも言える。
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受信者側にも問題があるというのは、大事な視点です。
熊谷さんはこうも言っています。
熊谷:知的障害者に「自分を表現できない人」というレッテルを貼
ることは、言ってみれば植松被告と同じところにおちいってしまっ
ているのです。
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