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2020年3月14日 (土)

「ゼンメルワイスの闘い」③ 人間の誕生とともにあった産褥熱/ブダ

今日は令和2年3月14日。

  

前記事に引き続き、

 「手洗いの疫学とゼンメルワイスの闘い

(玉城英彦著/講談社/2017年)より引用します。

  

  

産褥熱は前述のとおり、18世紀になって独立した病気と認めら

れたが、おそらく人間の誕生と同時に妊婦や赤ちゃんを苦しめて

いたと思われる。その証左に、医学の父ヒポクラテス(前460

頃~前375頃)の有名な全集の中にすでに産褥熱の記述がある。

母親になるということは、いつの時代でも、産む”苦しみ”に加え、

自分の生命と生まれてくる子どもの命を危険を冒して”守る”とい

う二重の大きな責務を負っている。19世紀以前には、母親の4

人に1人が自分の赤ちゃんの顔を見ることなく、亡くなることも

珍しくなかった。古来日本では、産褥期での妊産婦の死亡を「産

後の肥立ちが悪く」亡くなったといわれていた。やせ細って、な

かなか体調が回復しない(肥らない)ことに由来するらしい。

(41~42p)

  

4人に1人が自分の赤ちゃんの顔を見ることができない時代。

今はそうではないことを幸せに思います。

医学の進歩のおかげです。

  

  

彼(ゼンメルワイス)は1818年7月1日ブダ(現在のブタベ

スト)に、ドイツ系商人の第5子(4男)として生をうけた。

(43p)

  

この文章でビックリしたのが、「ブダ」という都市があったこと。

「ペスト」という都市もあって、それが合わさって「ブタペスト」

になったことを知りました。

合併したのは1873年。Wikipedia ブダベスト

    

  

ゼンメルワイスは学生時代に、3人の先生の魅力に取りつかれて

おり、その指導ももとで研究の面白さをすでに学んでいた。そし

て何よりも彼らを尊敬していた。人の出会いによって私たちの人

生は大きく変わる。人生行路において何を学ぶかは重要であるが、

それ以上にその過程で”誰に会うか”ということがより重要である。

その誰かの一言は、何十冊の本の内容にも勝るものだ。ゼンメル

ワイスにとって、3人の恩師との出会いはまさに運命的なもので

あった。

(55p)

  

この本の中で、所々、著者の人生訓が顔を出します。

ここもその場面。

今があるのは、人と出会ってきた結果だと思います。

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