「名鉄ディープ」③ 名鉄豊川線の歴史/名鉄小坂井支線の痕跡
今日は令和2年2月7日。
前記事に引き続き、
「名鉄沿線ディープなふしぎ発見」(小林克己著/
じっぴコンパクト新書)より引用します。
もうひとつ、書き留めておきたい話があります。
名鉄豊川線の歴史です。
この地図を見てください。
1939(昭和14)年に豊川海軍工廠ができたときには、
名鉄豊川線はできていませんでした。
豊川海軍工廠で働く彼らは、通勤に不便を感じていた。当時、
豊川一帯には、豊橋駅と長野県の辰野駅をつなぐ国鉄(現・J
R)飯田線しかなく、名古屋方面から通う場合は、名鉄の名古
屋本線で豊橋駅や伊奈駅へ至り、そこから飯田線へ乗り換える
という、遠回りになるルートで通勤していた。また御油駅と国
府駅から直通バスも出ていたが、ガソリン不足のなか頻繁に走
ることなく、通勤者は不便を強いられていた。
そこで海軍は、名鉄の路線から海軍工廠の正門前につながる路
線「豊川市内線」の新設を名鉄に要請したのである。
(38p)
伊奈駅と小坂井駅をつなぐ名鉄小坂井支線。
今はもうないのですが、痕跡が残っていないか、
グーグルアースで見てみました。
痕跡が見えますよね。
こんな感じに。☟
曲線部分をアップにしてみます。☟
中央の縦の道はよく通る道です。
曲線の部分の路地に、次回は入ってみようかなと思います。
話を戻します。
海軍に要請された名鉄は次のように動きます。
だが1943年は太平洋戦争の真っただ中である。戦時体制が
強化されるなか、新しく鉄道を敷設するための資材など入手困
難な状況だった。しかし、軍部の要請を受けたからには従うし
かない。名鉄は碧西(へきさい)線(新安城~西尾~吉良吉田
間)のレールを転用。また揖斐線や谷汲(たにぐみ)線の車両
や渥美線の天白変電所の設備を使うなど、四苦八苦しながら
1945年に国府~市役所前(現・諏訪町)間の4.4キロメ
ートルの豊川市内線を開通させたのである。
(38p)
まずは国府~諏訪町(旧市役所前)がつながったことを知りました。
駅を降りて、たくさんの人たちが、豊川海軍工廠まで歩く姿が
目に浮かびます。
続きです。☟
こうして軍部の要請によって半ば無理やり敷設された豊川市内
線だったが、終戦によって違った性格の路線となる。
目的地だった豊川海軍工廠は8月7日の爆撃によって壊滅状態
となり、戦後は再建されなかった。跡地は自衛隊駐屯地や企業
の工場などに転用された。
そこで名鉄は1954(昭和29)年、工員輸送がおもな役割
だった豊川市内線を、豊川稲荷への参詣路線へと位置づけを変
えた。5年後には諏訪町~稲荷口間が開業。同年末には稲荷口
~新豊川(現・豊川稲荷)間を延伸し、豊川線と改称したので
ある。
この延伸線の開業により、豊川稲荷への参詣には、従来の飯田
線ルートに新たなアクセスルートが加わった。これによって、
初詣などの混雑が分散される効果が生み出されたのである。
(38~39p)
66年前のこと。
名鉄豊川線はこうして誕生したのですね。
豊川海軍工廠が、というか戦争がきっかけになりました。
戦争は無理を通すところあり。
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