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2020年2月24日

2020年2月24日 (月)

「新婚さんいらっしゃい」50年目

今日は令和2年2月24日。

  

2月21日の朝日新聞朝刊より。

Epson250  

「新婚さんいらっしゃい」は50年目!

でもそうだよなあ。

私も将来結婚したら、この番組に出てのろけたいなあと

思ったことがあります。

気づいたら結婚してもう31年。

今頃行っても、参加させてくれません。

  

そうか昨年が結婚30年だったのですね。

何にも特別なことをせずにスルーしてました。

  

それでも50年も続いていたのは驚きです。

おそらく番組が始まった頃は、

愛知県での放送がなかったのではないでしょうか?

そう思ったら調べます。

  

Wikipedia 新婚さんいらっしゃいを見ましたが

よくわかりませんでした。

わかったのは、次のこと。

 

結婚(再婚も含む)してから6ヶ月以上3年以内の夫妻を

自薦あるいは他薦の形で募集

  

「6カ月以上」というのが何か面白い。

 

2020福島報告(1)国道288号線を東進/田村市

  

今日は2月24日。

   

2月18日~20日に福島県に行ってきました。

奥さんとの2人旅行です。

夜行列車等で福島県を通過することはあっても、

滞在したのは初めてです。

福島県で見聞したことを書き留めておこうと思います。

もう今年中に福島県を再訪することはないと思い、

「2020福島報告」としました。

  

私の大きな目標は2つです。

大熊町郡山市の柏屋です。

この2か所で教材研究です。

それ以外の観光で行く場所は奥さんがほぼ決めました。

  

福島県に向かう新幹線の中で、「歴史の愉しみ方」を読み、

あらためて東日本大震災と、

それに伴う福島第一原発の大事故によって、

多大な被災をした大熊町の今を少しでも見てこようと思いました。

※参考:ここでも道草 「歴史の愉しみ方」② 福島県に向かう新幹線の中で福島第一原発のことを読みました(2020年2月23日投稿)

社会科教師として、被災地を実際に見ることは大事であり、

昨年12月に長野市にボランティアに行ったのと同じ趣旨です。

ここでも道草 2019年冬長野(12)プリント「ボランティア活動をはじめる前に」(2019年12月12日投稿)

  

大熊食堂については、大熊町について調べていて、

何度か目にしていました。

でも営業時間を見たのは、旅行出発2日前でした。

11:30~14:00

  

待てよ?

確か新幹線が郡山駅に到着するのは昼だったぞ。

正確には11:59

レンタカーを借りて向かったとして間に合うかな?

調べました。

郡山駅から大熊町までの所要時間を調べました。

67km、1時間30分でした。

ぎりぎりでした。

  

閉店間際に到着する可能性があります。

それでもいいのか?

出発の前日に大熊食堂に電話してみました。

名のった後に、「明日そちらで食事をしたいのですが、

午後2時ぎりぎりに着くと思います。

それでも食事ができますでしょうか」と聞きました。

大熊食堂さんの返事。

「いいですよ。ただ定食はなくなっているかもしれません。

カレーだったら大丈夫です。」

よかったです。

とにかく午後2時までにたどり着くことに専念することにしました。

  

郡山駅を下車。

トヨタレンタカー店はあらかじめ位置を確認しておいたので

迷わずに向かいました。思ったより距離がありました。

手続きをしました。

車はパッソ。

いざ出発。東進しました。

ほとんどが国道288号線でした。

   

田村市に入ってにぎやかな街並みが2か所ありました。

なぜだろう、どちらが田村市の中心街なのだろうと思いました。

調べました。

田村市の歴史に関係しました。

Wikipedia 田村市

☝ Wikipediaによると、田村市は5町村が合併して誕生した市でした。

私がにぎやかな街並みだと思ったのは、

旧船引町と旧常葉町の市街でした。

国土地理院の地図で示します。☟ 

9 郡山市→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→大熊町

  

7 田村市船引町(旧船引町)

  

8 田村市常葉町(旧常葉町)

  

田村市市役所は船引町にありました。

ちなみに田村市の名前の由来は、

上記のWikipediaには次のように書いてありました。

  

市名は坂上田村麻呂による蝦夷征討後、その子孫である田村氏が

この地を田村郡として代々支配してきたことに由来し、

公募により決定された。(中略)そのような歴史的経緯から

坂上田村麻呂に関する伝承が数多くあり、

市内には坂上田村麻呂伝説に由来する地名が複数存在する。

  

なるほど、坂上田村麻呂由来の市名なのですね。

どうも、田村市という市名を見た時には、

ラグビー日本代表の田村優選手が浮かんでいました。

もしかしたら、田村選手は田村市出身?

でもすぐに思い出しました。

田村選手は、私の地元の愛知県出身(岡崎市出身)でした。

  

   

 

「2020福島報告」をスタートさせました。

こうやって、少しずつ見聞したことを、

調べたことも含めて報告を作成していこうと思います。

連休中にやろうと思いましたが、とても無理です。

ゆっくり着実に仕上げていこうと思います。

  

  

つづく

「歴史の愉しみ方」④ 愛知県に向かう新幹線の中で500年ごとの大地震のことを読みました

  

今日は令和2年2月24日。

  

前記事に引き続き、

歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ

(磯田道史著/中公新書)より引用します。

   

(岡山県)番町(ばんちょう)というところまできて、ふと小

早川秀秋のことを思い出した。そういえば、小早川秀秋の遺体

は、この番町の瑞雲寺(ずいうんじ)に埋められている。ひさ

しぶりに、見に行こうと考えた。

小早川秀秋は、岡山での人気がなかった。(磯田さんが)小学

生の頃、歴史少年だったわたしは、小早川の遺体埋葬地うぃ確

かめようと、その寺に一人で行ってみたことがある。愕然とし

た。荒れ放題。寺の屋根には草が生え、雨が漏れ、穴が開き始

めていた。とくに岡山は西軍の大将格の宇喜多秀家の地元。宇

喜多家の敗残浪人が「小早川さえ裏切らなければ」と歯嚙(は

が)みしているところへ、秀秋は入ってきた。だから、ひどい

話だが、秀秋が21歳で死んだときには、小気味がいい、と、

皆が思ったらしい。

秀秋を葬った寺についた。意外なことに、あれほど荒れていた

寺の屋根はすっかり修理されていた。「岡山城主小早川秀秋公

菩提寺」の真新しい標柱も立っていた。

時がたてば、秀秋への恨みさえ浄化され癒されるものらしい。

(124p)

   

最近の瑞雲寺の様子が、ここでわかりました。☟

ロードスターと戦国史跡ツーリング 瑞雲寺 『小早川秀秋の墓所』

磯田さんが、小学生の時に見た瑞雲寺と、

写真で比較したかったですね。

寺の住所は、岡山県岡山市北区番町2丁目6−22 

岡山市に行くことがあった時には、ぜひ訪れたいです。

  

  

太平洋の沿岸には、だいたい500年に1回ほどの周期で、超

巨大大津波がきている。

この500年に1度の「強いほうの東海大地震」が、最後にこ

の国を襲ったのは、室町時代で、明応大地震・明応大津波(1

498年)とよばれる。この地震津波の超絶した大きさは、鎌

倉の大仏の大仏殿を押し流し、大仏殿を裸にした可能性が高い。

さらには砂丘を破壊し淡水湖の浜名湖を海とつなげた。京に近

い湖が琵琶湖で近江(ちかつうみ)、京に遠い湖が浜名湖で遠

江(とおとうみ)だったのを変えたすごい地震である。

運の悪いことに、われわれは、この明応地震からちょうど500

年後の世界に生きている。次は強いほうの東海大地震、人口集中

地に15メートルの巨大津波がきても不思議ではない時期にさし

かかっているといっていい。

(150~151p)

  

前記事に書いたように、薩摩人の詮議のように、

巨大地震が来たらどうするか、どんな準備をしたらいいのかを

考えないといけないと思います。

先日、保険については確認しました。

一安心。次は・・・・・

  

  

さらに困ったことがある。新幹線のことである。2012年2月

2日付の『産経新聞』の記事で96歳の旧国鉄総裁の仁杉巌(に

すぎいわお)さんが重要な証言をされていた。国鉄は新幹線ルー

トを決める時、津波のことを全く考えなかった。大津波がくると

新幹線は、浜名湖付近と焼津付近の二か所で津波にやられる。迂

回ルートを作って対策したほうがいい、と、いっておられた。仁

杉元総裁は技術系出身の総裁で土木の専門家である。現在、新幹

線は10分どころか過密時には3分間隔で発車している。しかも

浜名湖付近では高架も低く海面に近いところを走行している。震

度6~7では新幹線は脱線に耐えるのがせいいっぱい。地震後、

曲がった線路を走るのは絶望的で、かりに15メートル近い津波

がくれば、新幹線の架線は5キロ、10キロと、水没する可能性

がある。上下線で悪くすると四編成が被害をうけることも考えら

れる。新幹線は一編成の定員が1300人。四編成やられた場合、

さらに東海道線もあるから、阪神大震災に相当する死者をここだ

けで生じさせるかもしれない。

(155~156p)

  

  

この部分は、東京から愛知県に戻る新幹線の中で読みました。

切実な内容でした。

もしかしたら偶然が起こるかも?と思っていました。

  

う~ん、ここまでにします。

「歴史の愉しみ方」からの引用を終えます。

磯田さんはとても歴史を愉しんでいました。

気になったことをほっておかないで追及することで、

おもしろい展開になり、愉しめることを

実践で証明してくれました。 

「歴史の愉しみ方」③ 詮議/変通

  

今日は令和2年2月24日。

  

昨日の記事に引き続き、

歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ

(磯田道史著/中公新書)より引用します。

  

司馬(遼太郎)さんは、明治人のリアリズム、とりわけ、薩人

(さつじん)(幕末の薩摩人)の的確な判断力について書いて

いる。薩人が、幕末政局をあやまたず、新政府を樹立するまで

の道のりを鮮やかに描いた。倒幕は薩長土肥の共同作業のよう

に語られるが、その実は違う。薩摩の、それも西郷や大久保な

どのごく一部の薩摩人が、恐るべき才覚でもって、まわりを巻

き込み、彼らが絵を描いて、革命にもっていったものである。

近年の幕末政治史の研究が、次第に、その実状を明らかにしつ

つある。

薩摩は、あるいは、日本のなかの例外かもしれない。薩人には、

「もし、こうなったら」とあらかじめ考えておく「反実仮想」

の習慣があった。(中略)薩人は、これから起きうる事態を事

前に想定し、対処のすべてを用意することに長けていた。薩人

の判断力の正体は高い反実仮想力であったといってよい。これ

を鍛えたのは、薩摩の郷中(ごじゅう)教育の「詮議(せんぎ)

」であった。薩摩では詮議と称し、子どもに色々と仮定の質問

をなげかけて教育した。「殿様に急用で呼ばれた。早馬でも間

に合わないときは、どうするか」「道を歩いていて脇の塀の上

から唾(つば)を吐きかけられたら、どうするか」など、仮定

の質問を子どもに問い、考えさせる訓練が繰り返された。

(67p)  

  

ついつい考えたり準備したりすることを後回しにしてしまい、

その時になってあわててしまうことは多々あります。

「詮議」大事です。

自分に問いを課して、自分の考えを出しておいたり、

準備をしておくことは大事だと思います。

「新型コロナウィルスに自分が罹患したらどうするか」

「家族が新型コロナウィルスに罹患したらどうするか」

など、今は考えておくといいかもしれません。

  

  

この国では1800年前後、寛政期あたりから、学校化が始ま

った。まず、武士からこの流れにまき込まれ、江戸前期には、

藩校はあっても自由登校であったのに、幕末までに、かなりの

藩で出席が義務化された。明治以降になると、学校への出席義

務は拡大、庶民までのみこまれ、現在に至っている。メリトク

ラシーとよばれる能力選抜主義に、下級武士から順次のみこま

れていったが、近代になっても、皇族・華族は学校化に対して

割合に超然主義を貫いていた。

(111~112p)

 

今の学校教育は、過去からずっと行われてきたものではなく、

まだまだ新しい制度なのです。

それなのに、こうでなくてはならないという面がたくさんあります。

まだまだ変化していくものだと思います。

みんな一斉にの教育から、個々に合わせた教育に移行中と思います。

ICTを利用した教育に、あと2年間、取り組んでいきたいです。

変化していくのが当たり前。

  

19世紀の日本人の強みは「世の中は変わる。人智と機械は進

歩する」と信じ「過去にとらわれず自らを変える」のに躊躇し

なかったことである。当時、これを「変通」といった。変化に

通ずるという意味である。

(89p)

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