2019年冬長野(4)疎開児童を受け入れた側の心情
今日は令和元年12月6日。
千曲市の上山田ホテルのロビーの一角で、私は光明学校の
疎開の資料を読みました。
今まで知らなかったこともたくさん知ることができました。
ここにまた資料のコピーを載せます。
長野県県職員OBの会「長野県親友会」の会報第78号
(平成29年1月10日発行)よりの抜粋です。
特に印象に残った文章を書きます。
村長は、校長の誠心誠意にこころを動かされ、途端に考えたのが
「私の家(上山田ホテル)の3階までの客室と洋館建ての別館を
提供するより方法がないだろう」と決心し、
しばらく待ってほしいと、その場は終わったという。
校長は内心目処がついてきたと喜んだが、村長の方は大変であった。
まずホテル全体の営業を中止しなければならず、大勢の従業員の
生活をどのようにして面倒をみてゆくか、また家族が承知するか、
などの難問題が目前にあったが、最終的には肢体不自由な子ども
たちのために、と皆が理解をしてくれた。
街の人たちも村長さんが営業をやめてホテル全館肢体不自由児の
教育のために提供したことに共感し、みんなが温かい雰囲気で迎え、
街のあちこちで和やかに笑い声を立てて話したり遊んでいる
ほほえましい情景が見られ、すっかり湯の街の人々と上山田村
全体に子どもらは受け入れられた。
受け入れ側の心情を知れてよかったです。
光明学校の学童疎開は、信州教育史上に特筆すべき出来事では
なかったろうか。記録に値するものと思われる。
記録に値すると私も思います。
この太田今朝秋さんの「随想」もネット上に載せました。
私のように光明学校の疎開に興味をもった人が、
ここに行きついてくれたら幸いです。
まだ載せたい資料があります。
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