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2019年9月26日 (木)

「広野の旅人たち」その1/開拓の歴史に欠かせない屯田兵 クワの実

 

今日は令和元年9月26日。

  

本「広野の旅人たち ~新十津川物語2~

(川村たかし著/偕成社)を読破しました。

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北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~」の

続編です。

※参考:ここでも道草 「北へ行く旅人たち」その1/台風の被害で北海道移住を決意した人たち(2019年9月22日投稿) 

  

印象に残った文章を引用します。

  

北海道札幌郡琴似(ことに)村に、最初の屯田兵が

入植してきたのは、明治八年五月のことである。

西郷隆盛の発案だった。

富国強兵の時代だ。北方のロシアにそなえるために、

北海道をかためなければならない。

正規軍をおけば費用がかさむ。

食いつめた武士にしごとをあたえ、原野をひらき、

同時に北海道を守らせるという屯田兵は、

まず安くあがるということから出発した。

隆盛の案を北海道長官の黒田清隆が実現させた。

はじめの三年ほど補助金をだせば、

あとは自分たちで食っていくことだろう。

はじめの三年ほど補助金をだせば、

あとはじぶんたちで食っていくことだろう。

家族ぐるみの移住だから、年がたてば子や孫がひきつぐ。

(53p)

 

もっとも、〈屯田兵〉として実戦に参加したのは、

たったいちどきりしかない。

明治十年、西郷隆盛をかついだ西南戦争がおこると、

札幌の農兵部隊がいさましくたたかった。

ひにくにも隆盛はじぶんのつくった部隊に

攻撃をうけたことになる。

(54p)

屯田兵は、日清戦争に派遣される予定でした。

東京に集結したのですが、出発前に日清戦争は終了。

屯田兵は明治33年に募集は終わり、

旭川に第七師団という軍隊ができ時に、

その一部に組み込まれました。

その第七師団は、日露戦争で二〇三高地の激戦に参加。

多くの兵が命を失いました。

  

屯田兵は、家族ぐるみの移住だっただけに、

老若男女を巻き込んだ北海道の歴史に欠かせないものと

なりました。小説「石狩平野」でも、重要でした。 

   

  

開拓者は蚕も飼っていました。

蚕のエサであるクワの葉を家族で摘むシーンです。 

  

(幼い)道太郎と有道のふたりは、小さなかごを

背おわせてもらってついていく。

ふたりのかごはなかなかいっぱいにならないが、

口のまわりはすぐにむらさき色にそまった。

うれたクワの実がどの枝にもついていたからだ。

ふたりはからのかごを背おったまま、

まず走りまわって黒くじゅくした実をさがした。

食べるあいだにときたま葉をつんでは、

相手のかごに入れっこをした。

(102p)

  

クワの実・・・たぐります! 6年前でした。

ここでも道草 H25 5月の花々20 クワ2(2013年7月22日投稿)

前任校の校庭には、クワの木があったのです。

おかげでクワの実を食べる体験ができました。

道太郎君たちの気持ちがわかります。

  

地図記号で桑畑はどう表すかも思い出しました。

お忘れの方は、6年前の記事を見てください。

  

簡単にたぐれるのが、ブログの良いところ。

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