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2019年8月12日 (月)

20190810報告2 川上音二郎の碑/徳川慶喜の墓

  

今日は令和元年8月12日。

  

天王寺五重塔跡付近は、谷中霊園と言われる墓地です。

そこには有名人の墓があるそうです。

 

Img_0439

☝ これはお墓ではなく、「川上音二郎の碑」と

あります。

10年ほど前には、この碑の前に説明があったようです。

このサイトでわかります。☟

ゆきの食魔日記

一部引用します。

  

川上 音二郎(1864~1911)

新派俳優。

壮士劇の率先者。(中略)

妻定奴近代日本最初の女優で、内助の功あり。

銅像は戦時中金属の供出で取り外され、台座のみ残る。

谷中過去帳より

  

あれは台座だったのですね。

台座の上にはどのような銅像があったのか

おおいに気になります。

調べたら、次のサイトにありました。☟

馬込文学マラソン ある戦争遺跡

この写真が載っていました。☟

Photo シルクハットとステッキを手に堂々とした姿の

銅像だったのですね。

ここにも戦争の痕跡がありました。

  

  

Photo_3 谷中ぎんざ公式HP 谷中マップ

徳川慶喜のお墓を見てきました。☟

この奥にあります。

Img_0441  

奥左手が徳川慶喜のお墓。右奥手が正室の徳川美賀子のお墓。☟ 

Img_0445  

次のサイトに興味深いことが書いてありました。☟

気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録

  

慶喜のお墓の後ろに側室(中根幸、新村信)のお墓もあります。

徳川慶喜は十男十一女の子沢山ですが、

多くの子供の母親が新村信と中根幸の二人です。

中根幸は、中根芳三郎の娘として生まれ、

成田信十郎の養女となって側室となりました。

新村信は、旗本松平勘十郎の娘に生まれ、

新村猛雄の養女となって側室となりました。

広辞苑の編者新村出は、新村信の義理の弟になります。

二人とも多くの子供たちを生んでいますが、

生前の役職は側女中で、子供を生んだからといっても、

女中以上の扱いを受けることはなく、

子供たちからも「幸」とか「信」とか呼び捨てにされたといいます。

  

そういう世の中だったというか、

江戸時代の徳川家のなごりなのでしょうか?

今度行く機会があったら、

慶喜のお墓の後ろまでよく見てこよう。

  

 

 

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