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2019年6月20日

2019年6月20日 (木)

「収容所から来た遺書」4/1953年長期抑留者帰還第一次

 

 

今日は令和元年6月20日。

  

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

あるとき、山本(幡男)が虎林(こりん)での初年兵時代の

話をしたことがあった。(中略)

1945(昭和20)年1月、山本は部隊長室に呼び出された。

「山本二等兵は、ハルビン特務機関への配属となった。

 明朝、出発せよ」

部隊長は命令したあと、山本が満鉄調査部にいたことを知っていて、

「おめでとう、竜が雲を得たようなものだな」

と励ましてくれた。山本が去ったその翌日、

虎林の部隊は南方戦線へ移動となった。

輸送船で送られる途中、敵機の爆弾で撃沈されて

五百名の将兵は戦死してしまった。

そんな話をすると、山本は眼鏡の奥の眼をうるませていった。

「ぼくひとりだけ・・・・生き残ってしまったのですよ」

(111~112p) 

虎林は、現在の地図では、ここです。↓

Photo Yahoo!地図

   

「新妻ですぞ、なんと新妻からの手紙です」

のぞき込んだ男が声を高くしてまわりの者に伝えた。

「新妻だ」の言葉は、ひとしきり同じバラックの

仲間たちの口にのぼるようになった。

その男はもちろん他の人びとにとっても、

七年の歳月を隔ててなお新妻は「新妻」のままなのだ。

その手紙を書いた妻は、またたく間に同じ部屋の人びとの

共通の「新妻」になっていた。

(149p)

  

スターリンの死は、わずかだったが確かにラーゲリ内に

明るい雰囲気を運んだ。

日本からの小包が、とつぜん許可になった。

日本の味といえば、ラーゲリを訪れた富山県出身の

高良(こうら)とみが、郷里の留守家族たちから頼まれたといって

帰国後に一度だけ東京から山本海苔を送ってきたことがあった。

富山県出身者たちは自分たちだけで故国の味を

楽しんでは済まないといって、

みんなに少しずつ分けた。

すぐに口に入れる者はなく、みな掌のうえに乗せて眺めたり、

匂いを嗅いだり、触ったりして楽しんだ。

そのときの海苔の味が忘れられず、長谷川は句会のときなど、

「血に沃度(ようど)が急にふえたような気がしたねえ」

と、なん度も山本(幡男)たちと話したものだった。

(160p)

沃度(ようど)=ヨウ素。海藻から摂取できる物質。 

  

日本から送られてくる小包は、

人びとにもうひとつの新しい情報をもたらした。

収容所のソ連人たちは日頃、日本は不況で国民は

貧困に苦しんでいるといっていた。

しかし、送られてきた品々から祖国が想像以上に

復興している様子が感じられて話題になった。

(161p) 

  

五か月間もナホトカのラーゲリに留められていた

小高や黒田たちは、別のラーゲリからきた人びとと合流して、

(1953年)12月1日に京都の舞鶴港に上陸した。

この時の稊団長は長谷川宇一だった。

長谷川以下811名の帰還者は、長期抑留者帰還第一次と呼ばれている。

このなかには、一般邦人391名の他に、女性9名、子供1名、

病人27名がまじっており、そのうちの約300名は樺太にいた

民間人だった。

帰還船「興安丸」での二昼夜の航海中から長谷川たちは、

8年間に及ぶシベリアでの疲労もかえりみず抑留者たちの

名簿作りを始めた。

すべては記憶にたよっての作業だったが、

1612名の残留者名簿と500名を超える志望者リストを

作成した。

長谷川たちは舞鶴に着くと間もなく、残された同胞の

帰還運動にとりかかり、国会へ請願に行くなど活発に

活動をし始める。

シベリアの俘虜のうち60万人近くがそれまでに

帰国していたが、組織だった引揚運動が起きたのは、

このときからである。

長期抑留帰還第一次の人びとは、それぞれ手分けして

残留した仲間たちの留守宅を訪ね歩き、その消息を伝えた。

(173p)

 

たくさん引用してきました。

シベリアではこんな状態だったんだ。

こんなことが起きていたのか。

そんなことを思って読みました。

シベリア抑留のことは、映像で以前見た覚えがありますが、

記憶がうっすらです。残念。

きっとその時のアウトプットが十分ではなかったのでしょう。

全てを知ることはもちろん無理ですが、

これらのことを知らずに、シベリア抑留の上っ面しか

教えてこなかったなあ。

まだ引用は続く。

「収容所から来た遺書」3/「まだ若い、人生は長い」

 

今日は令和元年6月20日。

  

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

とりわけ山本(幡男)が句会の折に熱をこめてよく語ったのは、

「ぼくたちはみんなで帰国するのです。

その日まで美しい日本語を忘れなようにしたい」

という言葉である。

竹田は、山本のいちばんいいたいことはこれではないかと思った。

(87p)

  

何年もシベリアにいるとこういう思いになるんだと、

ハッとさせられた文章です。  

  

絶望感から自暴自棄になる者が多く、

「白樺派」という言葉がラーゲリ(収容所)の中では

流行った。

ラーゲリでは、死ぬとボロボロの着衣までも剥ぎとられ、

解剖に付されてから埋葬される。

死者を偽って脱走するのを防止するためだといわれた。

そして、「お前たちは生きて帰さない。

白樺の肥やしになるんだ」とソ連側から

脅かされつづけてきたように、

遺体は白樺の根元を掘って埋められた。

その穴も、九月下旬には凍土になるので、

あらかじめ秋以後の死者の数を想定して、

その数だけ七、八月の短い夏の間に掘らされた。

冬に死んだ者を準備されたその穴に投げ込み、

凍土をかけ、春になってから埋葬しなおす。

「白樺派」というのは、帰国もできず

いずれその穴に収まるのは自分だ、

という投げやりな気持を吐露した言葉だった。

「おれは、もうじき白樺派だよ」

「どうせ白樺派になってしまうんだ」

などと自嘲をこめてみんなのあいだを飛びかった。

山本(幡男)はこの「白樺派」という言葉を耳にすると、

きまって野本にいった。

「野本さん、ぼくたちは白樺派になっちゃおしまいだよ。

 かならず帰れる日がくる。

 まだぼくたちは若いし、人生は長いんだよ」

自分よりも八歳も年上の四十二歳の男が、

「まだ若い、人生は長い」というのに、

野本は呆気にとられた。

しかし、もしかしたら山本はこのラーゲリのなかで

いちばん若々しい精神の持ち主かもしれないと思った。

(98~99p)

 

あるとき、山本と自殺の話になった。

「ぼくはね、自殺なんて考えたことありませんよ。

 こんな楽しい世の中なのになんで自分から

 死ななきゃならんのですか。いきておれば、

 かならず楽しいことがたくさんあるよ」

そう山本(幡男)はいうと、下を向いてニッと笑った。

ラーゲリの中にいながら、

「こんな楽しい世の中」という山本は、

普通の人間を測る物指しでは測りきれない、

別の物指しで見なければ理解できない人物だと思った。

そして、山本と話すようになって何か月か経つうちに、

あの「シベリアの青い空」の文章と同じように、

どんなに理不尽であっても絶望することなく、

いまいる状況のなかに喜びも楽しみも見いだし、

しかもそれを他人にまで及ぼしてしまうところに、

山本の精神の強靭さと凄さがある、と野本は理解した。 

(99~100p)

  

句会が終って食堂をでると、

外はつき刺さるような寒さだった。

山本(幡男)の鼻髭が、吐く息でたちまち

凍てついて真白になった。

「山本さん、寒い時だけでも剃ったらどうですか」

と新森がいうと、

「うむ。なにもかもとられたんだから、

 せめて髭ぐらいは残しておかんと」

と山本が答えた。

(105p)

  

つづく

  

山本幡男さんのことが、Wikipediaで説明されていることが判明。

ここです↓

Wikipedia 山本幡男

「収容所から来た遺書」2/「白樺のこやし」

  

今日は令和元年6月20日。

  

私の場合、本は再読しないかもしれませんが、

ブログは再読する可能性が高いです。

再読したい文章は、ここにせっせと書き残します。

 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

「ウラルの首都」と呼ばれるスベルドロフスク市は、

モスクワから1818キロ離れた、ウラル山脈の石炭と

鉄鋼を産する大工業都市である。

帝政ロシア時代には、エカチェリンブルグと呼ばれて栄え、

ロシア革命時に廃された皇帝ニコライ二世一家が幽閉され、

処刑された地としても知られている。

(17p) 

Epson027  

俘虜(ふりょ)たちがもっとも苦しめられたのは、

作業のノルマだった。

俘虜ひとりあたりの1日のノルマを収容所側が決め、

それを上回った者には、食糧の支給をふやし、

ノルマに達しない者には、それに応じて支給量が減らされた。

しかし、ノルマが厳しいため、それを越える者はいなかった。

1日黒パン200グラムとか、150グラムしか

支給してもらえない者も多く、そのため体力はますます衰え

さらに作業量が減るという悪循環がくり返される。

体力のない者は栄養失調で、夜中にだれにも気づかれず

ひっそりと死んでいった。

死ぬと、体中にまつわりついていたシラミが

いっせいに逃げ出すのですぐにわかった。

(22p)

  

死者は、白樺の木の根元に穴を掘って埋められたので、

「白樺の肥やし」といわれた。

(48p)

  

1949年(昭和24年)の夏、「地獄谷」にいた

山本や新森たち戦犯とされた日本人二十数名は、

ハバロフスク市内にあるソ連邦矯正収容所第六分所へ

移された。

到着したばかりの一行が目にしたのは、

焼け焦げた木材や朽ちかけた空缶の散乱する

ゴミ捨て場のような空き地だった。

第六分所は火事で焼けたままに長いこと

放置されていたのだ。

第六分所が火事に見舞われたのは、

山本がスべルドロフスクの俘虜収容所にいた

1947年12月27日の早朝であった。

第六分所は、戦争中に戦車を生産していた

カガノビッチ工場の寄宿舎を俘虜収容所に急改造したもので、

粗末な木造の平屋建てだった。

修養されていたのは、、ドイツ人2名を含む400名の

日本人俘虜たちで、そのなかには満蒙開拓団から

現地召集をうけた十六、七歳の少年兵も十数名まじっていた。

その朝、北隅の乾燥室から出火すると、

折からの北風に煽(あお)られて一気に燃え広がった。

収容所には出入り口が二か所あったが、

すでに北側の出口は火炎に包まれていた。

収容者たちは南側の出入口へと殺到したが、

そこには数日前に寒風が吹き込むのを防ぐために

観音開きのドアが釘で打ちつけられている。

人びとは狭い入口から飛び出そうと押し合っているうちに

充満した煙にのまれた。

翌朝ドア付近の焼け跡に、122名の死体がイナゴを

積みあげたように折り重なって発見されたという。

(62~63p)

日本から遠く離れた場所での、突然の無残な死。

無念だったはず。 

  

野本は周囲を見回した。(中略)

近くに人のいないのを確かめて、「シベリアの青い空」

という随筆と北溟子(ほくめいし)という筆者名が

目に入った。さほど関心もなかったが、

久しぶりに読む日本語が懐かしかった。

読み進むうちに、ささくれだった心が洗われていくような

心地になっていた。なによりも野本の心をつよく惹いたのは、

シベリアの青空の美しさを讃えている作者の

やわらかな感受性であった。

敗戦から5年間というもの、ラーゲリ(収容所)を転々とする

日々だった野本は、民主運動に痛めつけられて、

肋膜炎で死にかけたこともある。

他人の死は数えきれないほど見てきた。

「死」の痛みにさえ鈍くなっていた。

ましてやシベリアの空が美しいなどと考えもしなかった。

第一、空をしみじみ眺めてみるような心の余裕などがなかった。

不思議な人物もいるものだという驚きとともに、

「そうか、シベリアにも青空があったのか」という、

思いがけないものでも見つけたようなほろ苦い気持が広がった。

読み終えたあと、厳しいラーゲリ生活の中で、

青空に詩的な幻想を馳せるだけの心のゆとりを見せる

山本北溟子(山本幡男)という人物へ、にわかに興味が湧いた。

(77~78p)

  

普請場に燕大きく来りけり 栗仙

  

森田のこの句が山本(幡男)によって選ばれたときには、

「栗仙君のこの句はいいね。作業場にも、

ああもう夏がやってきたなという作者の思いが、

燕大きくによってでてますよ」

シベリアでは、燕(ツバメ)が夏を運んでくる。

長く厳しい冬のあと、一挙に訪れる夏は、

すべてのものが生き生きとしてくる。

燕がまるで「生命」を運んでくる使者のようだった。

ロシア人は溌溂として初々しい娘のことを

ラストチカ(燕)とよんでいた。

(82p) 

  

日本の場合は春に来るツバメ。

シベリアは夏なのですね。

「収容所から来た遺書」1/山本幡男(はたお)

 

今日は令和元年6月20日。

  

また本を完読。

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収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)

 

本を買うと、最後のページに購入日を記入します。

この本の購入日は「1998年11月9日」

購入してから21年ぶり。

この本の初版が出たのが1989年6月25日なので、

発刊されてから30年してやっと読みました。

  

このお話の主人公は、山本幡男さん。

「幡男」は、現在あまり見慣れない名前です。

本文の最初に登場した時には、

「幡男」には読み仮名がついていましたが、

後はなかったので、

何という名前だったかすぐに曖昧になります。

もう一度確認すると「はたお」と読みます。

また読み方は忘れるかもしれませんが、

漢字4字の「山本幡男」は忘れない名前になりそうです。

いやいや忘れてはならない名前だと思います。

  


1945年8月15日の終戦後、

満州にいた日本人はソ連へと連行されました。

その数なんと60万人。

彼らには極寒地での過酷な労働が強いられました。

そのうち7万人がシベリアで

亡くなったと言われています。

それでも多くの人たちが帰国できたのですが、

その中で、捕虜ではなく戦犯という判決を受けた

長期抑留者たちがいました。

最長で11年以上抑留されました。

山本幡男さんもそんな長期抑留者の一人でした。

  

この本では、山本幡男さんのことを中心に、彼らが過ごした

収容所(ラーゲリとよばれる)での日々が淡々と綴られています。

劣悪な衣食住環境の中、

死ぬまで働かされると思いながらの日々でした。

誰もが生きる望みを失うなか、

山本さんだけは決してあきらめませんでした。

俳句会を開いて、俳句を通して日本を思い出し、

いずれ日本に戻ることを信じて、日本語を磨きました。

俳句づくりは、多くの長期抑留者の過酷な生活の癒しになっていきました。

生きて日本に帰国する、あきらめないと宣言していた山本さん。

しかし、それは叶うことなく、

シベリアの地で病死してしまいます。

昭和29年の8月でした。

亡くなる直前、彼が日本の家族に宛てて書いた遺書。

ほかの抑留者たちは、

いったい何年後に帰国できるかわからないけれども、

いつか帰れる日が来たときに必ず、

山本氏の遺族に遺書を届けると誓います。

シベリアからは紙一枚持ち出すことも許されません。

帰国の日が来たときのため、

抑留者たちは山本さんの遺書を丸暗記しはじめるのです。

山本氏が最後の力を振り絞って書いた

何十枚にも渡る遺書を7人が手分けして暗記。

長期抑留者が日本に帰ったのは、昭和31年の暮れでした。

終戦から11年以上が経っていました。

帰国後、1人ずつから遺書が届けられ、

7通目の遺書が山本氏の未亡人のもとへ届いたのは

実に1987(昭和62)年のことでした。

  

  

この小説は、シベリア強制労働を、

とてもリアルに目の前に見せてくれました。

昭和20年8月15日に、戦争は全く終わっていなかったのです。

日本が戦後復興してだんだん華やかになっていくのと同時期に、

ソビエトではこのようなことがあったのですね。

 

次の記事から、たくさん引用していきたい。

もっと早く読んでおけば、授業で必ず扱った内容です。

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