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2019年5月14日 (火)

③ サラエボ事件の記事を読んだ日本人の反応

今日は令和元年5月14日。

  

前投稿の続きです。

 

4月28日放映の

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~ 16 ベルリンの壁」より。

 

次の3点について。

  

① オリンピックシンボルマークの誕生

  かの有名な「五輪の輪」

② 戦車が次々にわき出すヨーロッパ

③ サラエボ事件の記事を読んだ日本人の反応

 

今回は③について。

  

サラエボ事件を伝える新聞記事を読んだ牢名主が、

「まあ俺には関係のない話か」とつぶやきます。

Rimg1890_2  

牢名主だから牢内にいた人だから特別ではなくて、

牢の外にいる一般の人たちにとっても、

サラエボ事件、そして第1次世界大戦は、

遠くの場所で起こっていることであって、

あまり関心がなかったのではと思います。

  

ただ政治的・軍事的には動きがありました。

日本がイギリスと日英同盟を結んでいたからです。

日本は日英同盟を理由に、ドイツの租借地であり、

ドイツの海軍基地があった中国の山東半島を占領しました。

さらに中国に対して「二十一か条の要求」を突きつけ、

中国への勢力拡大を企てました。

 

 

あの有名なドイツ人捕虜による

ヴェートーベン「交響曲第9番」の演奏は、

この時のことでした。

1918年6月1日のことでした。

詳しくはここを読んでください。↓

浜松フロイデ合唱団 第8回 日本で初めて「第九」が演奏された場所 板東俘虜収容所

一部引用します。

 

殆どの収容所が俘虜たちを厳しく取り扱った中で、

坂東俘虜収容所(現在鳴門市)では少し様子が違いました。

所長の松江豊寿中佐は、俘虜たちにスポーツや農業、

文学・音楽活動も許していました。

その中で演奏された曲の一つが、

ベートーヴェンの交響曲第9番「第九」でした。

1918年(大正7年)6月1日のことです。

ドイツ兵の中には何人か専門の音楽家もいましたが、

楽器も演奏者も絶対的に不足でした。

そもそも、当時の軍隊はすべて男性だったので

ソリストや合唱もすべて男声向けに編曲し直さなければなりません。

今の私たちが想像する以上に大変なことだったと思います。

それでも、「歓喜に寄す」を歌いたい、

どうしても演奏しなければならない、という強い思いがあったはずです。

徳島県鳴門市では毎年6月には大規模な「第九」演奏会が開かれて

全国から演奏者が集まります。

収容所の跡地近くには「道の駅 第九の里」という施設があります。

収容所を舞台にした映画「バルトの楽園」もここで撮影されました。

1919年11月ドイツの降伏により戦争は終結し、

翌1920年にかけて俘虜たちは順次帰国しました。

しかし170人は日本に残り、洋菓子店やハムの会社を起こしました。

 

1918年と言えば、昨年が100周年だったのですね。

動画がありました。

ちょうど100周年の2018年6月1日の合唱です。

 

第1次世界大戦のドイツ人捕虜に関する話として、

ずっと以前に、ユーハイムの

バウムクーヘン(バームクーヘン)のことを書きました。

ここでも道草 バウムクーヘンとドーナツ(2011年6月6日投稿)

  

ユーハイムHPに次のように書いてありました。

  

日本のバウムクーヘンの歴史は、

1919年3月4日に広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)で行われた

「ドイツ俘虜製作品展覧会」でユーハイムの創始者

カール・ユーハイムが焼きあげたのが始まりです。

  

こちらはジャスト100年でした。

上のHPから転載します。↓

Photo_2  

バウムクーヘンのユーハイムが開業したのが、

1922年の横浜!

また横浜です。

不二家ができたのが1910年の横浜!

そしてショートケーキを初めて販売したのが1922年。

シュークリームも、幕末の横浜!で販売が始まりました。

洋菓子はやっぱり横浜。

以上、「いだてん」の1分30秒から話を広げてみました。

面白かった。

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