「室町飢饉救援隊」関連本を読むことで授業での見せ方も進歩するはず
今日は3月23日。
昨日は修了式があった日。
腰痛が再発した日。
先日、学校を休んだ時ぐらいの痛みが、
昼過ぎにビリッビリッと走りました。
何がいかんかったのか?
今朝早く、高齢の父親の介護が必要なハプニングがあり、
格闘しました。
そして、修了式で1時間ほど立っていました。
それがいかんかったのか?
なかなか治らない腰痛。
午後は早退して、家で静養。
せっかく部活のない土日ですが、
もちろん山にも行けそうにありません。
昨晩は勤務校の反省会。そちらもキャンセル。
なんてこった。のこり3年間、大丈夫か?私の体。
前投稿の続きで、2010年3月30日に放映された
「タイムスクープハンター 室町飢饉救援隊」の写真を
使いながら、調べたことを書き留めておきたいです。
飢えた避難民が押し寄せる京都ですが、
公家の家にはたくさんのお米があり、
さまざまな食材があり、饗宴が行われていました。
そんな絵が残されていて、ドラマで再現していました。↑
聞き書きします。
松田新右衛門らは、公家の知り合いの家に行って、
お米を分けてもらおうと出向きます。
沢嶋ナレ:だがそこで驚愕の光景を目の当たりにすることになる。
茶碗に山盛りに盛られたご飯。
山海の珍味がずらりと料理の数々。
食べきれない食事に、吐いては食べ、食べては吐くという
異様な光景。
都の特権階級の一部では、飢饉をよそに、
贅をつくした宴を繰り広げていた。
「異様な光景」は絵に残されていました。
衝撃的な絵ですが、本当にこんなことが行われたのでしょうか?
この絵についてもう少し知りたい。
「静嘉堂文庫美術館」を調べました。
美術館があるの東京都世田谷区。
静嘉堂文庫美術館HPからの引用。
静嘉堂は、岩﨑彌之助(1851~1908 彌太郎の弟、
三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(1879~1945
三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、
国宝7点、重要文化財84点を含む、
およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と
6,500点の東洋古美術品を収蔵しています。
静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の大雅、
既酔編の「籩豆静嘉」(へんとうせいか)の句から採った
彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うとの意味です。
明治期の西欧文化偏重の世相の中で、
軽視されがちであった東洋固有の文化財を愛惜し、
その散亡を怖れた岩﨑彌之助により明治20年(1887)頃から
本格的に収集が開始され、さらに小彌太によって拡充されました。
彌之助の収集が絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣など
広い分野にわたるのに対して、
小彌太は、特に中国陶磁を系統的に集めている点が
特色となっています。
なるほどです。
収集された絵の中に、あの吐いている絵があるわけです。
ただHPにその絵は紹介されていませんでした。
前々記事で書いた本「大飢饉、室町社会を襲う!」
(清水克行著/吉川弘文館)に期待したいです。
ラストシーンの聞き書きをします。
公家から寄付してもらったお米を、
避難民たちに施しをしている場所に
ある村から1人逃げてきた村民。
あまりに村の飢饉が厳しいので、
他の者たちを置きざりにしてきたが、
やはりお米を村に届けたいと願い出たのです。
松田新右衛門は、その村民を信じて、米を届けることに
しました。その後ろ姿が、ラストシーンです。
沢嶋ナレ:このおよそ40年後の寛正年間、
巨大な飢饉が西日本を襲った。
その時、飢えた人々を救ったのは、
民間の僧と庶民によるカンパだった。
その全てを歴史の記録は残しているわけではない。
だが、一人一人の小さな徳が、
失うはずだった多くの命を救ったことは事実である。
テロップ:その後の調査によると、
村で三人の生存者が確認された。
彼らは後の大飢饉も生きのび、
子孫を残すことができたという。
沢嶋:以上で、コードナンバー135726。
アウトします。
室町時代の前半に存在した有徳思想が学べた番組でした。
この番組がきっかけで知った本「大飢饉、室町社会を襲う!」
を読んで、よりこの映像について詳しくなりたい。
そしたら、授業での見せ方も進歩すると思います。
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