BS歴史館最終回/尊氏が鎌倉幕府を裏切った決定打 六波羅探題跡
今日は3月5日。
前投稿に引き続き、2014年3月13日放映の
「BS歴史館(最終回)疾走!足利尊氏 南北朝の扉を開く!?」 より。
足利尊氏が、鎌倉幕府を裏切ったきっかけについて
番組では次のように紹介していました。
聞き書きします。
ナレーター:近年の研究で、(尊氏)裏切りの決定打は、
(後醍醐)天皇の腹心楠木正成の奮戦だったという説が
出てきました。
尊氏が(後醍醐天皇軍討伐のため)出立する一月ほど前から、
楠木軍は千早城で籠城。
数万の幕府軍にわずか一千の兵で応戦していたのです。
「太平記」によれば、藁人形をおとりに、
幕府軍を急な斜面におびきよせ、岩や大木を落としたり、
熱湯をあびせたり、奇想天外な戦術を次々に繰り出しました。
千早城が落とせない。
消耗した武士たちは続々戦線離脱。
そのリアルな厭戦(えんせん)気分が逆に尊氏の背中を押したと
中世史を研究している(神戸大学大学院)市沢哲(教授)さんは、
言います。
市沢:尊氏が西に向かっている間に、千早城から離脱していた
武士たちに、かなり会っている可能性がある。
おそらく尊氏は、そういう人たちから、
幕府に対する不満とか聞いたり、西側で起っている事態の
深刻さとか逐一知りながら、西へ西へ向かっている。
その中で「時代が変わる」潮目が今なんじゃないか、
潮目が見えてきたというか、幕府を見限る判断をさせる
きっかけになった。
ナレーター:尊氏の決意を示す貴重な資料が京都近郊の
篠村八幡宮(亀岡市)に納められています。
「後醍醐天皇が世の中を救うために
綸旨(りんじ)を発せられたので、
勅命に従い、正義の兵を挙げる」
幕府を裏切り、後醍醐天皇を選んだ尊氏。
数日後、尊氏は幕府の西国防衛の拠点、六波羅探題を攻略。
それをきっかけに全国の御家人たちが雪崩打つように
討幕へと鞍替えった。
北条一族は鎌倉の山奥で集団自決します。
こうして150年近く続いた鎌倉幕府はもろくも滅亡。
尊氏が裏切りを決意してからわずか2週間のことでした。
楠木正成の奮戦が、足利尊氏の裏切りを促した説は
面白いです。有名人が結びついた可能性は楽しい。
亀岡市にある篠村八幡宮。
半年前に亀岡市には行っています。
※ここでも道草 20180901報告その1 獨鈷抛山千手寺の参道を自動車で走る(2018年9月10日投稿)
その時出向いた獨鈷抛山千手寺と篠村八幡宮、
そして六波羅探題跡を地図上で示してみました。
篠村八幡宮。ついでに寄れた場所ですね。
でも半年前には全く知りませんでした。
気になるのが尊氏が襲った六波羅探題。
5文字の漢字の面(つら)もいいし、
「ろくはらたんだい」という響きもいいです。
今はどうなっているのでしょう。
調べたら、今は石標が立っていて、跡地を示しているそうです。
このサイトを参考。
六波羅蜜寺という寺の境内に、石標はありました。
上記サイトの写真を転載。
境内の黒の格子柵の中にあるのがわかると思います。
2月23日のキミヤーズ塾が済んだら寄ってみようと思いました。
それでは次は再び「20190223報告」
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