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2019年3月 2日 (土)

くじけない後醍醐天皇その3/井伊谷の宗良親王

  

今日は3月1日。

  

前投稿に引き続き、2011年2月2日放映の

歴史秘話ヒストリア 折れない、負けない、くじけない

~風雲!後醍醐天皇がゆく~」より。

  

建武の新政が始まって2年、

後醍醐天皇と足利尊氏の争いが起こります。

話はそこから。

  

ナレーター:戦いを制したのは足利尊氏でした。

  京都を占領した尊氏は、次の天皇を擁立。

  新たに室町幕府を開きます。

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  後醍醐天皇は、再び京の都で幽閉され窮地に陥りました。

  ところが、やはりここで終わらないのが、後醍醐天皇です。

  その反撃は、またもや都から脱出することから始まりました。

  天皇が逃れたのは、大和の国、今の奈良県吉野。

  後醍醐天皇はここで尊氏側の天皇とは別の朝廷、南朝を開きます。

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  京都の北朝と吉野の南朝が相争う南北朝の争乱の始まりです。

  この時、近畿の武士の大半が、北朝足利尊氏についたため、

  南朝はきわめて不利でした。

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  しかし、後醍醐天皇は奥の手とも言うべき策をうっていたのです。

  それは、自分の子ども、皇子たちを、遠い地方に派遣することでした。

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  静岡県浜松市の井伊谷宮(いいのやぐう)。

  皇子のひとり、宗良親王(むねよししんのう)が祭られている神社です。

  南北朝の動乱が始まるや、後醍醐天皇は、

  宗良親王を東に向けて派遣。

  ここ井伊谷は、親王が最初に拠点にした所縁(ゆかり)の地です。

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  この地にたどり着いた親王には、地元の武士、井伊氏が味方し、

  北朝方との戦いを始めます。

  その後、親王は各地を移動しては、武士を味方につけ、戦い続けたのです。

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  こうして後醍醐天皇は、6人の皇子を、北は東北から、

  南は九州まで、次々に派遣します。

  皇子たちによる戦いの火の手が、続々と上がりました。

  皇子派遣のねらい、それはかつて後醍醐天皇自身が、

  楠木正成たちを味方にした時と同じ状況を各地に

  作り出そうとするものでした。

  中でも、東北では伊達政宗の先祖伊達一族を従えて、北朝側と激戦。

  やがて京の都に攻め上ろうと、関ケ原付近まで到達しました。

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  しかし、京都に近づくにつれ、北朝室町幕府の軍勢は

  厚みを増していきます。

  大軍を前に、南朝側は苦戦。ついに皇子までもが

  命を落とす事態まで追い込まれ、敗退しました。

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  後醍醐天皇の策は行き詰まります。

  北朝にも天皇がいる今、劣勢続きの後醍醐天皇が、

  いくら権威をかざしても、自分の損得を優先する武士たちには、

  通用しなくなっていました。

  あらゆる逆境にもくじけなかった後醍醐天皇。

  でも、今度は時間がありませんでした。

  

  「こととはむ 人さへまれに 成りにけり

        我が世のすゑの 程ぞしらるる」

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  私が話しかける相手も今や稀となってしまった。

  人生に終わりが見えてきたのだろうか。

  

  それから間もなく、後醍醐天皇は、吉野で世を去りました。

  享年52。まさに激動の生涯でした。

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  後醍醐天皇の死後も、南北朝の動乱はおよそ50年続きます。

  しかし、南朝が世を治める日が来ることはなかったのです。   

  

  

南朝ができて以後、後醍醐天皇側がこんなに奮戦していたことを

この番組で初めて知りました。

ナレーターの言った「やはりここで終わらないのが、後醍醐天皇ですが、

この番組を見るとよくわかります。

  

驚きは井伊谷と宗良親王とのこと。

2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放映された時に、

直虎所縁の地として井伊谷を訪れています。

※参考:ここでも道草 ゆかりの場所巡り その1/8時間で回った場所一覧(2017年2月21日投稿)

※参考:ここでも道草 20180203観音山報告その6/井伊直宗正室の墓他(2018年3月17日投稿)

その時に「宗良親王」という名前にも出合っていますが、

残念ながらその時は勉強不足。

宗良親王が、後醍醐天皇の息子であって、南朝に味方する武士を増やすために

井伊谷に来たことを知っていたら、もっと意識して見学したのになあ。

無知はもったいない。でもまた行こう。幸い近いので。

 

  

後醍醐天皇の和歌もいい。

 

「激動の生涯」だった後醍醐天皇。

52歳で亡くなったのですね。

私よりも年下。

後醍醐天皇よりも長生きしていることを幸せだと思いたい。

後醍醐天皇は、もっと生きたいと思ったであろうに。

  

つづく。

  

書き出したのは3月1日でしたが、もう2日になってしまいました。

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