くじけない後醍醐天皇その3/井伊谷の宗良親王
今日は3月1日。
前投稿に引き続き、2011年2月2日放映の
「歴史秘話ヒストリア 折れない、負けない、くじけない
~風雲!後醍醐天皇がゆく~」より。
建武の新政が始まって2年、
後醍醐天皇と足利尊氏の争いが起こります。
話はそこから。
ナレーター:戦いを制したのは足利尊氏でした。
京都を占領した尊氏は、次の天皇を擁立。
新たに室町幕府を開きます。
後醍醐天皇は、再び京の都で幽閉され窮地に陥りました。
ところが、やはりここで終わらないのが、後醍醐天皇です。
その反撃は、またもや都から脱出することから始まりました。
天皇が逃れたのは、大和の国、今の奈良県吉野。
後醍醐天皇はここで尊氏側の天皇とは別の朝廷、南朝を開きます。
京都の北朝と吉野の南朝が相争う南北朝の争乱の始まりです。
この時、近畿の武士の大半が、北朝足利尊氏についたため、
南朝はきわめて不利でした。
しかし、後醍醐天皇は奥の手とも言うべき策をうっていたのです。
それは、自分の子ども、皇子たちを、遠い地方に派遣することでした。
静岡県浜松市の井伊谷宮(いいのやぐう)。
皇子のひとり、宗良親王(むねよししんのう)が祭られている神社です。
南北朝の動乱が始まるや、後醍醐天皇は、
宗良親王を東に向けて派遣。
ここ井伊谷は、親王が最初に拠点にした所縁(ゆかり)の地です。
この地にたどり着いた親王には、地元の武士、井伊氏が味方し、
北朝方との戦いを始めます。
その後、親王は各地を移動しては、武士を味方につけ、戦い続けたのです。
こうして後醍醐天皇は、6人の皇子を、北は東北から、
南は九州まで、次々に派遣します。
皇子たちによる戦いの火の手が、続々と上がりました。
皇子派遣のねらい、それはかつて後醍醐天皇自身が、
楠木正成たちを味方にした時と同じ状況を各地に
作り出そうとするものでした。
中でも、東北では伊達政宗の先祖伊達一族を従えて、北朝側と激戦。
やがて京の都に攻め上ろうと、関ケ原付近まで到達しました。
しかし、京都に近づくにつれ、北朝室町幕府の軍勢は
厚みを増していきます。
大軍を前に、南朝側は苦戦。ついに皇子までもが
命を落とす事態まで追い込まれ、敗退しました。
後醍醐天皇の策は行き詰まります。
北朝にも天皇がいる今、劣勢続きの後醍醐天皇が、
いくら権威をかざしても、自分の損得を優先する武士たちには、
通用しなくなっていました。
あらゆる逆境にもくじけなかった後醍醐天皇。
でも、今度は時間がありませんでした。
「こととはむ 人さへまれに 成りにけり
我が世のすゑの 程ぞしらるる」
私が話しかける相手も今や稀となってしまった。
人生に終わりが見えてきたのだろうか。
それから間もなく、後醍醐天皇は、吉野で世を去りました。
享年52。まさに激動の生涯でした。
後醍醐天皇の死後も、南北朝の動乱はおよそ50年続きます。
しかし、南朝が世を治める日が来ることはなかったのです。
南朝ができて以後、後醍醐天皇側がこんなに奮戦していたことを
この番組で初めて知りました。
ナレーターの言った「やはりここで終わらないのが、後醍醐天皇です」が、
この番組を見るとよくわかります。
驚きは井伊谷と宗良親王とのこと。
2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放映された時に、
直虎所縁の地として井伊谷を訪れています。
※参考:ここでも道草 ゆかりの場所巡り その1/8時間で回った場所一覧(2017年2月21日投稿)
※参考:ここでも道草 20180203観音山報告その6/井伊直宗正室の墓他(2018年3月17日投稿)
その時に「宗良親王」という名前にも出合っていますが、
残念ながらその時は勉強不足。
宗良親王が、後醍醐天皇の息子であって、南朝に味方する武士を増やすために
井伊谷に来たことを知っていたら、もっと意識して見学したのになあ。
無知はもったいない。でもまた行こう。幸い近いので。
後醍醐天皇の和歌もいい。
「激動の生涯」だった後醍醐天皇。
52歳で亡くなったのですね。
私よりも年下。
後醍醐天皇よりも長生きしていることを幸せだと思いたい。
後醍醐天皇は、もっと生きたいと思ったであろうに。
つづく。
書き出したのは3月1日でしたが、もう2日になってしまいました。
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