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2018年2月18日

2018年2月18日 (日)

「21世紀脱・学校論」からの引用/没頭できないのは学校教育の弊害?

 

今日は2月18日。

  

前投稿に続いて「すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論

(堀江貴文著/光文社新書)から引用します。

  

没頭できるかどうかを決めるのは、

人の性格でも、あるいは没頭の対象の種類でもない。

それに対してどれだけ主体的に関われるかだ。

目の前に現れたものを、「与えられた作業」ではなく、

「自分でルールの作れるゲーム」だととらえられるようになれば、

あなたの人生は今この瞬間からでも、

没頭で埋め尽くされていくだろう。

では、なぜあなたはそこに足を踏み出せないのか?

簡単だ。学校教育の洗脳が抜けていないからである。

学校は、人が「好き」や「快」で動くことに対して、

すぐにイエローカードを差し出す。

あくびをしたら咎め、はしゃいでいたら叱り、

できない部分をひたすら注意する。

これらを許してしまったら、その人はオールBを目指さず、

「禁止」への恐怖も持たない人間になってしまうからだ。

(121P)

  

「禁止」ルールに基礎づけられた学校教育の中で、

人は自分の中の「好き」や「快」に従って生きること自体を

「悪いこと」だと思い込む。

その結果、自分の没頭する力に強烈なブレーキをかけ、

身動きがとれなくなってしまうというわけだ。

僕には「好きなことに打ち込むことは悪いことである」という

価値観はさっぱり理解できない。

「子どもがサッカーに夢中で、サッカーの強い高校に

行きたいと言うんです。でもJリーガーになれる人はごく一部ですし、

できれば普通の進学校に進んで勉強してほしくて・・・」

この手の意見は耳にタコができるほど聞いてきたが、

素直に言うと、僕には意味がわからないのだ。

「サッカー選手になれる確率は低いのだから、

サッカーにハマるのは無駄だ」。これは裏を返せば、

「サッカーをやるからには、サッカー選手にならなければならない」という

謎の強迫観念にとらわれているということだ。

サッカーという入り口は、サッカー選手という出口にしかつながっていない

・・・・とても窮屈な考え方だ。まさに、「用意されたレール」式の

発想である。

いちいち解説するのもおかしな話だが、

「サッカーに没頭する」という体験がもたらす可能性は、

「プロのサッカー選手になる」ことだけじゃない。

もしかしたら彼は、途中でサッカーグッズの開発に興味をもつかもしれない。

サッカー漫画にハマって漫画家を目指し始めるかもしれない。

サッカー部でできた友達と、何か関係ない仕事を始めるかもしれない。

10年後にはサッカーにまつわるまったく新しい

ビッグビジネスが生まれており、彼のスキルがたまたまそれに生きるかもしれない。

こんな想像は、いくらしてもきりがない。まさに無限大だ。

こうした可能性を、すべて「ゼロだ」と却下できる人はいないはずだ。

同時に、どれか1つの可能性だけを取り上げて、

それを理由にやるやらないの選択を下すのも馬鹿馬鹿しい。

やりたいならやればいい。それだけだ。

現実はそうなのに、「サッカー選手になれる確率は低いから、

真面目に勉強しなさい」という、論理的に破綻した正義を

平気で振りかざすのが、学校教育なのだ。

学校は、どんな入り口からでも、無限の可能性にアクセスできるという

事実を隠蔽する。そして、解くべき問題集を、進むべき大学を、

就職するべき優良企業を次から次へと用意し、

人をそのレールの上だけで走らせようとする。

(122~123P)

  

この本で堀江さんが言いたかったことは、

この最後の引用文に凝縮されているように思えます。

「やりたいことをやりなさい」

「それに没頭することで、無限の可能性がある」

「その行動にブレーキをかけているのが、学校教育だ」

  

やりたいことに没頭した後のことが心配なんだよなあ。

これも学校教育に洗脳された結果?

  

   

たくさんの時間をかけて引用してきました。

この時間が少々もったいない。

文章をテキスト化するアプリがあるはず。

探してみよう。

「21世紀脱・学校論」からの引用/インターネットの登場

 

今日は2月18日。

 

前投稿に続いて「すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論

(堀江貴文著/光文社新書)から引用します。

  

当たり前にやっている仕事を見直すには、いい本です。

  

どんどん引用します。

  

何のために何をするのか、どんな風にするのか、

すべてを自分で決め、自ら責任を負いながら突き進む力。

新しい時代を楽しく生きるために必須のこの能力を、

僕はシンプルに「没頭する力」と呼んでいる。

(84P)

  

没頭する対象なんて、その気になればいくらでも見つかる。

あなただってきっと、すでに出会っている。

でも、自分で自分にブレーキをかけているのだ。

「こんなの、できっこない」と。

どうしてわざわざ自分にブレーキをかけるのか?

答えは簡単だ。「学校」でそう洗脳させられたからである。

学校は、あの手この手を使って、子どもたちの欲望に

ブレーキをかけさせる。

そして、急ブレーキによって人生にエンストを起こさせるような

この介入のことを、傲慢にも「指導」などと呼んでいるのだ。

(86P)

  

自分で行き先を決め、アクセルを踏む生き方のためには、

「学び」が不可欠だ。 (中略)

僕が言う「学び」とは、没頭のことだ。

脇目もふらずに没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが

「学び」だと僕は思っている。

だから、没頭する対象は数学や英語、料理だろうと、

ダンスだろうと何でもあり得る。

すなわち、その人が心から没頭できていれば、対象は何であれ、

僕はそれを「学び」ととらえる。

(88P)

  

堀江さんは、学校や企業で行われる「お勉強」と、

「学び」は違うと言う。

「お勉強」は受動的、正解あり、カリキュラムあり、

イノベーション(革新?)の可能性なし、楽しさなし。

「学び」は能動的、正解なし、カリキュラムなし、

イノベーションの可能性あり、楽しさあり。

「お勉強」をする者たちの目的は、

「与えられた課題をこなし、大人に認められること」だけだと

断じています。

  

残念ながら学校は、こうした学びの本質を教えてくれない。

むしろ、子どもたちから没頭する機会を奪うことばかりに

力を注いでいるのが現状だ。

象徴的なのが、学校教育を覆う「オールB」思考である。

たとえば、5教科のうち1教科だけがA評価であとはE、

という生徒のことを普通の教師は褒めない。

どれだけその1教科に飛び抜けた才能があろうと、

教師は不出来だった4つの教科について彼を咎める。

国語しかできない子は、こんな風に言われるだろう。

「あなたは理系科目が弱点だから、数学や理科をもっと頑張りなさい」

これが「美術だけ」「体育だけ」になると、

教師の評価はもっと辛くなる。

主要科目以外の特技に打ち込む生徒は、

学校から見ればただの落ちこぼれでしかない。

野球に没頭すれば「野球バカ」と言われ、

化学に没頭すれば「化学バカ」と呼ばれる。

没頭している何かについての価値判断より、

できていない部分の量によって「バカ度」を測られるのが

学校という場なのである。

(93P)

これは受験を意識するかな。

将来高校受験で困らないように、

どの教科にも苦手意識をもってほしくない気持ちはあります。

「やってみたら面白いよ」「まずはやってみよう」

という気持ちがありますね。

でも、なにもかも「面倒!」「やりたくない!」という子どもが

「これって面白い」と思える教科を見つけた場合は、

しっかり応援したいです。

実際、今目の前にいる子どもがそうです。

理科が得意なんだとこの1年で思ってくれました。 

  

堀江さんは、インターネットの登場によって、

世の中が変わったと考えています。

  

G人材(グローバルな活動範囲もつ人)の最大の特徴は何か。

それは実は「所有からの解放」にある。

彼らは、「所有」に価値を置かずに生きることができるのだ。

(中略)

インターネット登場以前における「豊かな人生」の条件は、

なんといってもモノの「所有」、ストック量だった。

お金や土地、家、車など、みんなが欲しがるモノを

どれだけ多く手元に置いているか。

これが社会における絶対的なステータスであり、

人の幸福度を左右する重大事項だったのである。

こうした価値観は、今もなお多くの人々が引きずっている。(中略)

しかしインターネットの登場によって、

この価値観はすでに崩壊している。(中略)

今インターネットビジネスを「虚業だ」と鼻で笑える人はいない。

インターネットは、人とあらゆるモノ、

そしてモノ以外を繋ぐ最強のインフラとなった。

G人材とは、このことを心から理解し、

最大限に利用している人たちのことを指す。

だから彼らにとって、一番大切なのは、モノではない。

情報だ。

(60~61P)

  

情報というと、ニュースのようなものを思い浮かべる人が多い。

日経平均株価が何円上がったとか、あの企業はそろそろ

上場しそうだといった内容のものだ。

これはつまり、各種印刷物や伝聞から得られる知らせということになる。

でも、現代のおける情報の意味合いはもっと多様だ。

メールもLINEも、グーグルマップも路線情報アプリも、

すべてが情報としての価値を持つ。

こうしたツールの特徴は、「所有」しなくていい、ということだ。

お金を出して手元に常備しておかなくても、必要な時にはただ、

インターネットを通じてそれに「アクセス」するだけですむ。

ひと昔前まで、情報もまた「所有」することに価値があった。

みんなが知らない情報をたくさん持つことは権威の象徴だったし、

高等教育によって得られる知識もSの一種だったと言える。

それがインターネットの登場によって大きく変わった。

情報は、「所有すべきもの」から、「アクセスすればいいもの」へと

変化を遂げたのである。

だからG人材は、「所有」よりも、「アクセス」をベースに

自分の生活を豊かにしようとする。  

(61~62P)

  

こうした時代を象徴するアプリ「スナップショット」が紹介されました。

インスタグラムやツイッターと違って、上げたデータが最大でも

24時間で消滅してしまうというもの。驚きです。

友人相手なら、閲覧時間を10秒伊以内に設定することもできるそうです。

そんなの面白いのと思ってしまいます。  

堀江さんはこう書いています。

  

「データがすぐ消えるなんて」と戸惑うのは、

所有やアーカイブにこだわる古い世代だけだ。

ネットネイティブ世代は、「画像がすぐ消える世界」の価値を

直観的に見抜く。

(63P)

  

私は古い世代ですね。

やっぱりこのブログのように、書いたものは残しておいて、

再度見ることを前提にしています。

繰り返し読むことで、身につくと思っています。

こんなことが以前あったなと、

昔を思い出すときのきっかけにしたいとも思っています。

うわあ、「所有」「アーカイブ」派です。

堀江さんは、さらに書きます。

  

数秒で消えるなら、どんな変顔写真だろうが

お互い瞬間的にネタにして終わりにできるし、

データが残って「黒歴史」になることも避けられる。

毎日「いいね!」を稼がなければ、フォロワーを増やさなければ

というストレスもない。つまり、どこまでも気楽なのだ。

彼らにとって、余計な情報やモノは、むしろウザいゴミにすらなる。

(63P) 

  

ゴミかあ~。

データをストックするのではなく、純粋に見てその瞬間楽しむことに

注視したことで、ヒットしたアプリでした。

発想が違う。 

今はネットを使えば大抵の調べ物や勉強はできる時代。

「自分にはここが欠けている」と思ったら、

その場で瞬時に埋めることができる。

学校を順当に卒業しなければ得られない教養など、

もはや存在しない。

ならば、「好きなように生きて、わからないことがあったら

そのつど調べる」でいいのではないのか?

(101P)

 

これは大賛成。

インターネットは調べることをスピーディにしてくれて、

行動は早くなったと思います。

インターネットの普及は、それまでの価値観を変えています。

学校教育だって、もっと変わるべきだとは思います。

学校にも、企業にあるような開発部が必要だと思います。

そうでないと、民間の塾産業のほうが教材や指導方法が優れ、

学校には来ない子どもが出てきそう。

 

もう少し引用したい。続く。

「21世紀脱・学校論」からの引用/「学校」の歴史

 

今日は2月18日。

  

前投稿に続いて「すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論

(堀江貴文著/光文社新書)から引用します。

  

僕もすくめ、一般的な学校教育を受けた人たちは皆、

「いざという時」のために学校に通わされ、

役に立つか立たないのかわからない勉強をさせられてきた。

その間はもちろん、やりたいことを我慢し、

やりたくないことも受け入れるしかなかった。

たとえば、受験、就職、キャリアアップ。

あるいは結婚、出産、子育て。

さらには定年退職、老後。学業だけではない。

多種多様な「いざという時」に備えて今は我慢しなさい、というのが

大人たちの理屈だ。  (6p)

  

 

ちょっと違うように思えます。

我慢するのは、その後に楽しいことが待っているという気持ちが強いです。

今は我慢の時。それを過ぎれば、楽しい時、

つまりやりたいことができる時が来ると信じていたと思います。

 

 

「やりたいけど、やらない」人たちの脳裏にあるのは、

「自分がまだ実力不足だから」という自己否定に他ならない。

やりたい、動き出したい気持ちはある。

右足はなんとなくアクセルペダルを踏んでいる。

でも同時に、左足でブレーキペダルをベタ踏みしている。

しかし、そのことに気づけない。

我慢が習慣化しているからだ。

学校教育が作り出すのは、こうした無自覚の習慣に他ならない。

(7p)

  

この文章は共感できるところがあります。

やりたいことがあるのに、今の自分はそんなことをやっていると

後ろ指を指される仕事しかやっていない。

仕事に対しての自信が、この年になってもなく、

それが今やっている仕事以外のやってみたいことをやることに

ブレーキペダルを踏んでいるのだと思います。

  

昨日も山登りを誘われていたのに、断りました。

岡崎の瀧山寺の鬼祭りがあったのに、行くのをあきらめました。

何をやっていたかというと、勤務校に行って、

教室の片付け・整備をしていました。

それはそれで、やり遂げた感は味わえましたが、

やりたかったことは後回しにしました。

今日、ポックリ死んでしまったら、後悔するだろうなあ。

でもこれって、昨日の仕事が「我慢」になっているんで、

問題ではあります。

  

  

なぜ学校は恣意(しい)的な(勝手な)常識を

人に押し付けようとするのか?

その常識によって、どんな人間を育てようとしているのか?

一言でいえば、従順な家畜である。

社会は、とくに旧来型の企業では、従順な働き手を求めている。

したがってその養成段階であう学校で

子どもたちに道徳規範を叩き込まれ、

学力という形で「従順さ」に点がつけられていく。

受験のため、卒業のため、就職のため、どんな理不尽な勉強にも耐え、

ひたすら情報処理能力を磨いていく。

そんな従順さの指標が、受験社会における「学力」だ。

企業からすると高学歴な人間は、理不尽な作業への

耐性が強いという判断になる。

いまだ体育会系の学生へのニーズが高いのは、

要するに「従順さ」と「理不尽への耐性」が強いとみなされているからだ。

(21p)

 

学校は、そこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。

建前上は「個性を大切にしよう」「のびのび育ってほしい」などと言うものの、

その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。

(22p)

 

教師は子どもたちに同じテキストを暗記させ、

同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。

赤点を取ったり、問題行動を起こしたりした子どもは、

どうにか「規格内」になるように尻を叩く。

そして「会社」に納品する。

(23p)

  

堀江さんは、学校誕生の歴史に触れていきます。

  

一定の年齢に達した国内の子どもを1箇所に集め、

読み書き計算を教える。

こうした学校制度の基礎は、19世紀、

つまり産業革命期のイギリスで生まれた。

当時のイギリスは、ヨーロッパの覇権をいち早くつかみつつあった。

そして重火器の発明や、その大量生産を可能にする工業力増強の動きが、

社会に産業革命をもたらした。

この時庶民は、「大量生産を目的とする工場で労働し、その報酬をもらう」

という新しい働き方を得た。

そして、工場を作る資本を持つ富裕層、つまり資本家たちは、

「いかに大勢の働き手を集め、効率よくマネジメントしていくか」という

課題を抱えることになった。

「会社」的な世界観のはじまりである。

(23~24p)

  

工場の誕生によって、古くからの家庭内手工業に従事していた

職人たちが一斉に職を失う。

同時にその子どもたちも、「親の後を継ぐ」という道が閉ざされ、

文字通り路頭に迷った。

産業革命以前、子どもは立派な労働力の一部であって、

保護する対象ではなかった。

だから(産業革命)当初、子どもたちは大人と同じように

工場で働かされ、劣悪な労働条件や大気汚染の中、

猛烈な勢いで死んでいった。

さすがにこれではまずいということで、

政府が主導して作ったのが「学校」である。

学校の大きな役割は2つあった。

1つは子どもの保護。

そしてもう1つは、彼らを「望ましい工場労働者」へと

育てあげることだ。

(24P)

  

学校はもともと、子どもという「原材料」を使って、

「産業革命に適応した大人」を大量生産する

「工場」の1つだったのである。

今の学校も、この原則はまったく変わっていない。

学校で押し付けられるのは、「工場=会社」の

予行演習のようなことばかりだ。

たとえば時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、

ボス=教師の言うことへの服従・・・・。

そして今の子どもたちも、雇用者にとって管理が楽な

「望ましい労働者」としての規格からはみ出ないよう、

「常識」せっせと教え込まれているのである。

(25P)

 

  

今のような「学校」が存在するのは当たり前とは思いません。

教えるー教えられるの関係はあったと思いますが、

今の「学校」のように、たくさんの子どもたちを

強制的に集めて教えるー教えられるシステムは、

確かに歴史は浅いと思います。

だから、「学校」がこれからも今のままではないと思います。

これから変わっていくのでしょう。

堀江さんはもうこれからの「学校」が見えるのかもしれません。

   

ただ私は「望ましい労働者」を育てている発想はあまりありません。

確か澤口俊之さんが言っていたと思いますが、

人生を幸せに過ごさせるためだと思っています。

本人だけでなく、本人と関係する人たちをも幸せにする

そんな人物を育てたいです。

そのために澤口さんはHQ(人間性知能)を育てることを

提唱しています。

今の世の中、これからの世の中の仕組みを教師はきちんと認識して、

子どもたちが上手に対応し幸せになれるように育てたいです。

澤口さんの考えを書き留めたことあり↓

※参考:ここでも道草 「『やる気脳』を育てる」からの引用(2013年6月28日投稿)

※参考:ここでも道草「『やる気脳』を育てる」からの引用 その2(2013年6月29日投稿)

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