行きたくなった備中松山城 その1
今日は5月16日。
4月に1回しか自転車通勤をしませんでした。
5月こそはと思いましたが、なかなかできず。
昨日が5月初の自転車通勤でした。
新年度通算2日。トホホ。
毎年めざしてきた月平均10日、年間120日の自転車通勤。
どうなる?
担任している子どもで、4年生ながら歴史大好き少年がいます。
その子が、DVD-Rを貸してくれました。
私が録画を忘れていた3月10日放映「歴史秘話ヒストリア
戦国・名城の魅力まるわかり!謎と驚きのお城 400年物語」
の入ったDVD-Rでした。
見ることができました。
そして備中松山城のことを知りました。
歴史大好き少年のおかげで知ることができた備中松山城のお話を
聞き書きしてみます。
ナレーター:1868年。明治維新の動乱、戊辰戦争で
数多くの城が攻撃されました。
お城が邪魔者扱いされる時代の始まりです。
明治6年、政府は「廃城令」を発布。
全国の城の多くを大蔵省が管理処分するというもの。
地方の団体や民間への売却が始まりました。
先日国宝になった松山城天守、売却価格、180円。
(現在の約85万円)
世界遺産姫路城天守、23円50銭。(現在の約11万円)
100を超えるお城が学校などを建てたり、
建築資材を取るために解体されてしまいました。
ナレーター:こちらは岡山県の「天空の城」として人気がある
備中松山城。
標高400メートルの山頂付近にあり、江戸時代の姿を残す
美しい天守が山々と神秘的な風景を織りなす。
ナレーター:明治の「廃城令」で売却されたものの、
険しい山の上にあったため、放置されました。
60年もの間、忘れ去られてしまったのです。
「天空の城」の復活。
それはたった1人の熱意から始まりました。
地元旧制中学校の歴史教師、信野友春(しなのともはる)。
ナレーター:昭和の初め、他の県から赴任してきた信野が
備中松山城を見学しに行ったところ・・・
信野:これは、何ということだ。
ナレーター:手入れが一切されないまま、ボロボロになった天守。
屋根には草が生え、壁土も多くがはがれ落ち、
建物自体が今にも崩れそうでした。
貴重な山城が失われてしまう。
信野は城の構造や寸法など、あらゆる姿を丁寧に記録していきました。
ナレーター:この見事な天守についてまとめた本が出版されると、
地元の人々は高い山の上に眠ってきたかけがえのない
ふるさとの宝を思い出したのです。
信野友春さんについて調べました。
このサイトが参考になりました↓
このサイトによると、信野さんは広島県出身。
広島県下各地の小学校・補習学校で15年間勤務。
その後なぜか遠くの宮崎県の中学校に3年間勤務し、
昭和 2年(1927)9月30日、
岡山県立高梁中学校 (現・高梁市)に赴任しています。
ここで信野さんは、備中松山城に出会ったのです。
ナレーターが言っていた本の名前は「備中松山城及其城下」です。
この本は、平成3年(1991)3月、高梁市郷土資料刊行会により
復刻再版され今日なおこの書は高く評価されているそうです。
このサイトの信野さんを紹介した文の最後はこう書いてありました。
昭和45年、その地味な学研の生涯を終えた。80歳。
信野さんの業績によって、備中松山城はどうなったか?
次の投稿に書きます。
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