ゆかりの場所巡り その8/龍潭寺 井伊共保公出生の井戸 方広寺
今日は3月30日。
前投稿に引き続き、
2月19日に大河ドラマ「おんな城主 直虎」の
ゆかりの場所を巡った報告をします。
龍潭寺へ行きました。
大河ドラマが始まって、私を含めて関心が高まったこともあって、
龍潭寺を訪れる人は多かったです。
↑暖かい縁側でした。
↑有名な庭園です。
墓所に行きました↓
井伊直親の墓は他の場所にもありました。
浜名湖に流れ込む都田川の堤防の近くにあると聞きました。
調べると・・・
例えばこのサイトが参考になりました↓
一部引用します。
『井伊直親公の墓』は国道257号線(通称・金指街道)
新祝田橋北岸の堤防道路を西へ300メートルほど行った
堤防の下にありました。
堤防の上からは細い道が整備されていますが
ゆっくり行かないと見過ごしてしまいそうな所です。
土盛の上に小さな石碑があり、その手前に
嘉永4年(1851)子孫の井伊直弼が
墓参に訪れたおり寄進された灯籠が一対ありました。(中略)
永禄5年(1562)、井伊家当主直親は今川氏が弱体化する中、
遠江を狙っていた徳川家康の誘いに乗りかけました。
そのことを家老の小野但馬守(小野和泉守の子)が
今川氏真(義元の子・今川家当主)へ伝えたため、
直親は氏真に疑われます。
疑いは新野左馬助親矩(今川氏の一族・井伊直盛の妻の兄)のとりなしで
一度は治まります。
直親はそのお礼のため従者19人とともに駿府へ向いました。
その途中12月14日に今川氏の譜代重臣で
掛川城主の朝比奈備中守泰朝に殺害されました。27才でした。
直親の遺骸は掛川からこの地に運ばれ
都田河畔で火葬されて墓が建てられました。
法名は大藤寺院剣峯宗惠大居士といいます。
全く知らなかった歴史が、
平成29年になってどんどん入ってきます。
でも地元ではとっくの昔からあった歴史なんですよね。
井伊家初代の井伊共保公出生の井戸は、
龍潭寺近くにありました。
この石碑に何が書いてあるかわからず。
磯田道史さんなら、すらすら読めちゃうんですよね。
調べました。ここから↓引用します。
井伊家36代の井伊直弼が
この地に訪れた時に詠んだ句だそうです。
でも意味はわからず。
ここで朝からの同行者kurarin maxと別れて、
1人方広寺に向かいました。
これが最後の訪問場所です。
井伊直親の妻の出身は奥山家。
その奥山家ゆかりの寺が方広寺です。
↑大きなお寺です。ビックリ。
↑楽しい石仏です。
↑最初、方広寺を上から見た時に気になった赤い橋の中。
これで、ゆかりの場所巡り完了。
帰路につきました。
この帰路で、驚きのことがありました。
方広寺から県道で県境を越える手前でのこと。
このように、道に竹が被さっていました。
これぐらいなら自動車で下をくぐれると思いました。
そしたら、自動車の衝突安全システムが稼働。
急ブレーキがかかって、自動車が止まってしまいました。
なぜ止まったのかはすぐにわかりませんでした。
しばらくして竹が原因だと思いました。
後ろに車がいなくてよかったと思いました。
運転手も驚く急ブレーキの停車なので、
後ろに車がいたら追突の可能性もあったでしょう。
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