ゆかりの場所巡り その7/地域遺産センター 紅屋 天白盤座遺跡
今日は3月30日。
今年度も押し迫ってきました。
新たなスタートは4月3日なので、
あと4日間。やりたいことはいっぱいある。
前投稿に引き続き、
2月19日に大河ドラマ「おんな城主 直虎」の
ゆかりの場所を巡った報告をします。
井伊谷城跡を下りてきて、地域遺産センターへ。
↑この特別展を見てきました。
ここでなぜ直虎が女城主になるまでのいきさつを
より詳しく知りました。
桶狭間の戦いで、直虎の父・22代直盛戦死。
その後、23代目は直親(なおちか)。
直親の死は、謀反の嫌疑をかけられての殺害。
詳しいいきさつを知りたいと思いました。
次は誰が井伊家の中心になたかというと、
ここで20代目の、直虎にとって曾祖父にあたる直平でした。
かなりの高齢だと予想されます。意外です。
もう他に男子はいなかったのでしょう。
まだ幼い直政の後見役となります。
ここもどのようないきさつなのだろうと思いました。
(亡くなった人は白黒写真になっていました)
この特別展で抱いた疑問は、ちょうど3月26日の放映
「おんな城主 直虎 12話 おんな城主直虎」で、
解決しました。いきさつを見ることができました。
ただ、直平の死についてはドラマでは詳しくは語られませんでした。
出陣した陣中で「不思議な死をとげる」と
ナレーターは言っていました。
説明があるかなと思ったら、次の話になってしまいました。
気になる。直平の死について調べました。
ここには「直平の死諸説」という項目が起こされ、
服毒死、討死、病死など諸説書かれていました。
脚本家も決めきれず、「不思議な死」としたのでしょうか。
特別展の後は、同行者の勧めでこの店↓に行きました。
紅屋(べにや)です。
名物の「みそまん」を買いました。
次は渭伊神社・天白盤座遺跡へ。
↑渭伊神社
そして天白盤座遺跡↓
ここに着いた時に、地元の人が、
同志社大学による発掘を見ていてことを教えてくれました。
この説明板にも、平成元年に行われた調査のことが書いてあります。
発掘調査のことは次のサイトに詳しく書いてありました。
一部引用します。
遺跡発見のストーリーは、辰巳和弘氏著の
『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』(新泉社)に
詳細に記されている。
きっかけは『磐座紀行』藤本浩一著(1982、向陽書房)に掲載された、
渭伊神社の巨岩に関する短文と1枚の写真にあったという。
「引佐町(いなさちょう)歴史と文化を守る会(歴文会)」の
メンバーがこの本を目にしたことで、
薬師山の巨石群が磐座遺跡であると認識される。
昭和59年(1984)、磐座周辺は下草や丈の低い雑木におおわれ、
かなり荒れた状態にあったが、
歴文会が中心になって手入れが行われ、
祠(ほこら)が置かれ「磐座まつり」が開催される。
この手入れで、磐座周辺は現在の景観に回復され、
これが遺物発見の大きな布石となった。
昭和63年1月、引佐町の遺跡分布調査を行っていた
同志社大学の辰巳先生と学生5人が、巨石群に立ち寄った折、
学生の一人が地表に顔を出した土器の破片を発見した。
全員が自分の足元に目をやると、破片はつぎつぎに見つかり、
たちまち20点近い破片を採集する。
本格的な発掘調査は、翌年(1989)8月に
2週間余にわたって行われた。
この調査で4世紀(古墳時代)から13世紀(鎌倉時代)に至る長期間、
連綿と続いた祭祀場であったことが明らかとなった。
目の当たりにしてきたあの巨石群も、
1984年以前は草むらの中にあったのですね。
私が撮った写真です。
↑岩と岩を繋ぐ綱に、紙垂(しで)がついていました。
木々がバックで見えにくいと思いますが、よく見てください。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」の第1話で、
子どもたちが遊ぶ場面で、この天白盤座遺跡が出ていました。
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