「真田丸」シリーズ30 里山は荒廃していた
今日は12月29日。
前投稿に引き続き
12月1日放映の「片岡愛之助の解明!歴史捜査
真田丸 総決算!大坂の陣はいかにして起きたのか?
家康VS秀頼の真相に迫る!」より。
聞き書きしていきます。
ナレーター:徳川対豊臣。
材木をめぐる知られざる戦争を、歴史捜査。
社寺造営のメリット②家康の天下普請を妨害。
実は豊臣家が社寺造営にいそしんでいた時期は、
家康が天下普請で次々に築城していた時期に重なる。
築城も社寺造営も同じく大量の材木を必要とする。
このため、両者が同時に行われれば、当然材木の供給が
ひっ迫することは想像に難くない。
実際、この2つにより、想定外の事態が起きていた。
徳川方と豊臣家で材木の争奪戦が起きていたというのである。
豊かな森に恵まれているというイメージのある日本。
材木の争奪戦が起きる状況とは、
どのようなものだったのだろうか?
太田猛彦先生。
森林をさまざまな角度から研究。
国土の歴史的な変化にもくわしい。
その時代、森林には大きな変化が起きていたと言う。
太田:まあ、木はですね、用具の材料だとか、
また炭や薪などの燃料としても使われてますので、
本当にもう、なくてはならない資源だったと思います。
そのために、木はどんどん伐採されてですね、
もうこの頃にはですね、日本の森はもう荒廃しきっており、
特に里山ははげ山になっていたというふうに思います。
ナレーター:そういう危機的な状況が浮世絵に描かれていた。
太田:この浮世絵は、皆さん誰もが知っている歌川広重の
「東海道五十三次」の中の1枚。「平塚」の絵です。
後ろに山が描かれていますけど、遠くの方の山だから
あんな風に書いてあると皆さん思っていたじゃないでしょうか。
背後の山ははげ山です。
もちろん京都の北山も東山もほとんど木がありませんでした。
ナレーター:現在、燃料だった里山の木は、
石炭・石油が出てくるまで、徹底的に伐採され、
山が荒廃した状態が明治・大正になっても続いていた。
そんな貴重な材木の奪い合いが、
徳川・豊臣の間で発生したことが、
徳川方の文書に残されている。
文書によると、徳川方と豊臣家で紛争が起こり、
検使の派遣を要するほど、問題がこじれたことがわかる。
大坂の陣にはるか前から、すでに徳川と豊臣は、
経済などで冷たい戦争と言える状態になっていたのである。
以上で聞き書き終了。
日本の里山は荒廃していたという説は驚きです。
地元の愛知県の資料も出てきました。
里山の登山をしている身としては、写真のはげ山は意外でした。
浮世絵のはげ山も、今まで意識していなかったので、
いい視点を与えてくれたと思っています。
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