「君は天然色」の詞に込められた思い
今日は2月23日。
昨晩、ついつい見ていた番組「成功の遺伝子3」で、
貴重な情報を得ました。
大滝詠一の「君は天然色」に関する話です。
例えば、この曲はここで聴けます。
昔、新任の頃、よく聴いた懐かしい曲です。
この曲がいきなり番組に出てきてビックリ。
「成功の遺伝子3」は次から次にさまざま人物が出てきて、
成功に至るまでの過程で影響を受けた物事や人物を紹介していました。
ついつい見ていました。
作詞家、松本隆さん登場。
松本隆さんは1949年東京生まれ。
3人兄弟の長男で、一番下の妹は生まれつき心臓が弱く、
医者からは、長くは生きられないと言われていました。
松本さんは「妹を守らなくてはいけない」と心に決めました。
小学校に上がった妹を、松本さんは背負って登校したそうです。
小学5年生の時に、松本さんは「成功の遺伝子」と出会いました。
手にした本は「銀河鉄道の夜」
松本さんにとって影響を受けたのは宮沢賢治でした。
松本さんは、高校生の時にドラムを始め、
大学に入っても音楽に情熱を傾けていました。
しかし、本をいつも手放さずにいるほど本も読んでいたそうです。
一緒に活動していた細野晴臣さんが、
松本さんに「本が好きなら、詩を書いてみたらどうだ」と声をかけました。
作詞をスタートさせた言葉となったそうです。
1970年、「はっぴいえんど」結成。
メンバーは松本隆さん、細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さん。
本格的に詞を書き始めた松本さんに影響を与えたのが、
小学5年生の時に出会った宮沢賢治でした。
共通するものがあったようです。
宮沢賢治も風をテーマにした作品が多かったが、
松本さんの作詞したタイトルにも「風」が多いのです。
1972年、「はっぴいえんど」解散後、
松本さんはアイドルの曲の作詞を手がけました。
「ポケットいっぱいの秘密」(アグネス・チャン/1974年)
「木綿のハンカチーフ」(太田裕美/1975年)
「セクシャルバイオレットNo.1」(桑名正博/1979年)
しかし30歳(1980年)に突然詞が書けなくなります。
妹さんの死です。
26歳で亡くなってしまいます。
妹を守れなかった松本さん。
病院で妹の最期を看取った後、渋谷の街を歩いた渋谷の街。
目の前が色を失い、モノクロームのように見えたそうです。
風景が灰のように見えたそうです。
「冗談じゃなくて、こういうこともあるんだと思った」(松本さん)
実は宮沢賢治も妹を亡くしている。
肺結核で24歳の妹を亡くしています。
宮沢賢治はその悲しみを作品にしました。
「永訣の朝(えいけつのあさ)」です。
しかし松本さんは詞が書けませんでした。
そんな松本さんに、かつてのバンド仲間大滝詠一さんから
作詞依頼がありました。
とても書ける状況ではなかった松本さんは、
「書けそうにないから、他の作詞家にあたってくれ」
と告げました。すると大滝さんは
「この作品は松本じゃないとダメなんだ」
「書けるようになるまで待つ」と答えました。
松本さんが再びペンを握ったのが、3か月後。
完成したのが・・・・・
何だろうと思ってテレビに注目しました。
それが「君は天然色」(1981年)だったのです。
妹さんの死後に書かれた曲のイメージではないものでした。
でも歌詞をあらためて見て驚きです。
「思い出はモノクローム 色を点(つ)けてくれ」
「もう一度そばに来て はなやいで美(うるわ)しのColorGirl」
松本さんは、妹を失い、街が色を失ったあの時の思いを込めたのです。
「白と黒に見えた世界から立ち直るきっかけが”君は天然色”で、
書かせたのは、天国にいる妹かもしれない」(松本さん)
その後の曲。
「ハイティ―ン☆ブギ」(近藤真彦/1982年)
「ハイスクールララバイ」(イモ欽トリオ/1981年)
「卒業」(斉藤由貴/1985年)
「冬のリヴィエラ」(森進一/1982年)
「風立ちぬ」(松田聖子/1981年)
などなど。52曲のナンバー1ヒットを生み出しました。
こんな番組でした、
ついつい見ていた番組でしたが、
「君は天然色」の背景を知ったのは大きな収穫でした。
さっそく書き留めました。
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