平将門の首塚4/当時の資料に当たってみる
今日は1月25日。
前投稿のつづき。
「幻解!超常ファイル 選 東京ミステリー 平将門の首塚」
(2014年11月1日放送/7月放映の再放送)より。
実際に現在に伝わっている祟り伝説については、「平将門の首2」で書きました。
それを当時の資料に当たって、確かめていきました。
当時の新聞を洗い出してみたところ、
速水大蔵大臣が就任3ヶ月で確かに病死していました。
↓大正15年9月14日読売新聞です。
しかし、早速(はやみ)大臣は首塚の取り壊しには関わっていない上、
死亡したのは、取り壊しがあってから3年も後のことでした。
「安らかな大往生」と記事には書かれていました。
当時の記事には、祟りを感じさせる記事はなかったそうです。
大蔵省幹部の死亡記事もありました。
↑昭和2年5月26日 東京朝日新聞
しかし、連続して死亡したという記事は見つけられなかったそうです。
落雷が大蔵省の庁舎を焼いたという話は、
塚を取り壊してから17年も後のことでした。
↑昭和15年6月21日 東京朝日新聞
それも、落雷があったのは、大蔵省ではなく航空局でした。
当日は、東京の20箇所に落雷があった大荒れの日で、
大蔵省をねらったものではなかったと言えそうです。
初めて祟りについて書いてる記事が発見されました。
そこのところは、ナレーターの語りの聞き書きでいこうと思います。
そんな中、初めて祟りを記した記事があった。
首塚が取り壊されてから5年後、
昭和3年3月に大蔵省が将門の鎮魂祭を行った時のものだ。
「将門の霊よ この通り謝まる」
「帝都の真ん中 しかもいかめしいお役所で 昔ながらの怨霊鎮め」
記事によると、大蔵省で死亡者が14人相次いだ上、
首塚を上から土足で踏みつけるせいか、足をけがするものが続出。
大蔵省内で誰ともなく祟りだと噂がたったのが理由だという。
今に伝わる大蔵省の祟り伝説は、この一連の鎮魂祭記事が出どころのようだ。
大蔵省は仮庁舎を撤去して、首塚の石碑を建て直した。
祟りの噂が、首塚を復活させたということになる。
(現在の石碑は昭和45年に設置されたもの)
それでは、GHQの駐車場建設での
ブルドーザー横転事故はどうだったのか?
噂の出どころとして行き当ったのは、地元の研究者が昭和43年に記した
「史跡 将門塚の記」
そこにはブルドーザーを運転していた日本人が、
突然の事故で死亡したとだけ。
ブルドーザーが横転とか、不審な事故が相次いだとは確認できなかったが、
死亡事故は起きているようだ。
しかし、GHQは、祟りなど眼中にない。
そこで工事を中断させるために立ち上がったのが、地元の人達だ。
事故のことを知るや、彼らはGHQに向かい、
「ここは、古代の王の墓だ」と訴えた。
何度も陳情を重ねた結果、首塚は駐車場に組み込まれず、守られた。
工事は塚の手前50cmのところまで来ていたという。
番組では、平将門が江戸の守り神だったことを言っています。
将門の首塚の近くには、かつては神田明神があって、
将門を祀っていたそうです。
徳川家康が、平将門を関東の主として祀ったのをきっかけに、
神田明神は、将軍から庶民までを守る総鎮守となりました。
平将門は守り神になったのです。
しかし、明治になって、天皇が東京に来ると、
平将門は、神田明神の主祭神から外されてしまいました。
かつて天皇に反逆したことからです。
それは江戸庶民の不満をかったそうです。
番組を見た直後はすっきりしていましたが、昭和3年の記事は気になります。
本当に死者は相次いだの?
足を怪我した人は本当に続出したの?
その辺りが解決していないよと思う。
とにかく、月末に東京に行った時には、首塚を見てこようと思います。
お参りもしてこよう。
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