山下勝選手のドラマを見ました
今日は8月2日。
7月20日は日曜日でした。
午後、何気なくテレビを見ていたら、ドラマが始まりました。
これはいいと思って録画スイッチを押しました。
ドラマ「幻の祝祭 ~1940東京オリンピック物語~ 前編」でした。
7月27日に後編放送。もちろん録画して、後編も見ました。
後編の写真を載せながら、番組のことを書いてみます。
後編の冒頭にこう書いてありました。
「これは事実に基づいた物語である」
どんな事実か、後編からピックアップします。
ドラマは、新聞記者佐藤走(かける)が、深夜の駒沢陸上競技場で
練習に黙々と励む青年と出会います。
名前は山下勝。
佐藤は山下と話していて、めざしているのが1940年の幻の東京オリンピックだと知ります。
午前2時3分になると、山下青年は消えてしまいます。それも毎晩。
佐藤は山下勝について調べ始めます。
戦前の陸上雑誌の中に「山下勝」の名前を見つけます。
山下青年は、専修大学生。
1年生の時から箱根駅伝に出場。
期待の星でした。
そんな山下青年の名が陸上界にとどろいたのは、
3年生で臨んだ箱根駅伝でした。
エース区間の第3区を区間新記録で走り、専修大学を初優勝に導きました。
その記録は、その後16年間破られることがない大記録だったそうです。
トラックでも力を発揮しました。
その年、つまり大学3年生の時の1万mのランキングは2位。
1位の村社(むらこそ)講平さんに5秒差まで迫っていました。
箱根を制し、村社選手に迫って、東京オリンピック候補に名のリをあげました。
しかし、東京オリンピックは、時代の激流に飲まれていきます。
1937年(昭和12年)、日本は日中戦争に突入しました。
アジアでのオリンピック開催の意義を唱えて開催地を勝ち取ってから、ちょうど1年。
そのアジアに対して、日本は戦争の火ぶたを切りました。
そしてそれまでオリンピックへの協力を示していた軍部が、態度を一変させました。
7名の現役将校を、馬術競技に送り込むことを決めていた陸軍が、
突然、その出場の中止を発表しました。
議会を中心に、オリンピック中止論が一気に広がったそうです。
村社講平さんの日記。
「夜のニュースにて、またまたオリンピック中止論。議会の問題となる。
面白くなし。小さい日本の姿が、目の前に見える」
日中戦争のため、日本への非難が高まり、
東京オリンピックをボイコットするという動きが各国で出てきました。
世界からの圧力が頂点に達しました。
ついに政府は、東京市に対して、オリンピック中止の通達を出しました。
通達を受けて、東京市はオリンピック開催地を返上しました。
いったん開催が決まっていた都市が、
自ら返上したのは、オリンピックの歴史上、東京が唯一のケースになりました。
東京オリンピックが開催されるはずだった1940年の日本選手権大会。
村社さんの日記に山下青年の名前がありました。
「山下君に10秒遅れてゴール。ついに7回連勝ならず。」
佐藤記者はここまで調べましたが、その後の山下青年の情報が途絶えます。
そしてこの記事に出会ってしまいます。
「長距離の至宝 山下勝選手 河北で壮烈な戦死」
昭和17年。24歳でした。
これが事実。本当に事実?
山下勝選手のことは今まで全く知りませんでした。
より事実と認識したいと思いました。
ドラマ前編の中で、佐藤記者がネットで
「日本陸上競技選手権大会の記録一覧」を調べ、
日本選手権大会10000mの村社講平の6連覇や、
1940年には山下勝選手が優勝していることを確認しています。
私もやってみました。
おそらくWikipediaだと思います。
ただWikipediaそのままではありませんでした。
こう載っていました。
事実だ!このドラマは、この山下勝選手の話でした。(次の投稿、明朝につづく)
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