「北条政子」より・・・父が同じでも母が違えば他人も同然
今日は12月28日。
本「北条政子」(永井路子歴史小説全集9/中央公論社)から引用します。
源頼朝と義経が仲たがいしたことについて書いた文章です。
この有名な兄弟の仲たがい事件を、これまではとかく、
頼朝の嫉妬や猜疑心、またはまわりからの讒言(ざんげん)やら兄弟の離間を策した
朝廷側の陰謀などとみているが、それはまちがっているか、あるいはごく一部しか見ていない議論である。
第一、頼朝というこの男、女癖は悪いが政治感覚は鋭敏だ。
二十年間流人で我慢してきただけあって、自分の感情を殺すことに馴れている。
個人的な感情で大局を見失うようなことは決してしない人物である。
その彼が九郎の戦功をねたんだなどというのは、少し子供っぽすぎる。
それよりもまず第一に考えねばならないことは、
当時と今では「兄弟」という血筋のけじめがまったく違っていたということだ。(239p)
今の「兄弟」関係がどう違うのか。さらに引用します。
そのころ、厳密な意味で「兄弟」というのは、
母を同じくする子供たちだけで、父が同じでも母が違えば、まず他人も同然だった。
しかも、ものをいうのは母の家柄で、家柄が悪ければ、
たとえ先に生まれていても、跡継ぎにはなれない。
げんに頼朝は義朝の三男だが、母の出がよかったので、
はじめから嫡男あつかいだった。(中略)
しかも、子供たちは母の家で育つから、母が違えば顔も知らない場合が多い。
これでは兄弟の情などは起こらないのがあたりまえで、
顔をあわせてもしっくりゆかない。
それどころか、ときには他人よりもすさまじいけんかになることもある。
それをふせぐために、のちの武家社会では、
長男に権威をつけて惣領ーーーすなわち領地全体の管理者とし、
弟たちは絶対これに服従させることにした。
この「惣領」ということばはつい最近まで生きていて、
長男が家の中で絶対権力をもっていたのはご存じのとおりである。(239-240p)
今とは違う兄弟関係に驚きました。
義経は頼朝を兄上として親しく接しようとし、弟だから許されるだろうと甘い面もあったようです。
しかし、頼朝は兄弟だから許していては、他の御家人たちにしめしがつきません。
義経が朝廷から官職をもらったことは、それを禁じていた頼朝としては、
許せなかったことだったのでしょう。
兄弟の情も薄かったこともあり、頼朝が義経を追いやった結果になったようです。
父が同じでも母が違えば他人も同然。
特に驚きました。
母でさえ、乳母が子どもの面倒をみるので、子どもとの交流が少ない。
昔はちゃんと理由があったと思いますが、なぜこのようにしていたのでしょう。
まだまだ知らないことあり。
(つづく)
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