国分寺・国分尼寺下見17/ずっと埋没していた遺跡
(前投稿のつづき)
741年の聖武天皇の指示(詔勅/しょうちょく)によって
8世紀後半に建てられた国分寺・国分尼寺ですが、
300年ほどの運命で、歴史からその姿を消しました。
跡地にはそれぞれお寺が建てられ、
かつて国分寺・国分尼寺があったことは忘れ去られ、
現在に至っていました。
大正9年に、この地を訪れた学者が、
地名に目をつけました。
八幡町忍地(にんじ)。
忍地から「尼寺(にじ)」が連想され、
ここに国分尼寺があったことを推理しました。
ここから始まりました。
この地名と、すでに発見されていた礎石から、
大正11年に三河国分尼寺跡は、三河国分寺跡とともに、
国の史跡に指定されました。
※指定した日を刻んだ国分尼寺跡の石碑
昭和42年に発掘調査が行われ、
かつての国分尼寺の様子が判明しました。
平成11年~17年に、豊川市は保存整備事業を実施しました。
中門と回廊の一部を復元。
跡地は史跡公園として開放されました。
傍らには「三河天平の里資料館」が作られ、
展示や映像によって古代三河国の概要を解説しているほか、
最新の発掘調査情報を発信しています。
※http://www.geocities.jp/shimizuke1955/2670mikawakokubunji.html
「三河天平の里資料館」に掲示されている絵が素晴らしい。
三河国分寺・三河国分尼寺があった頃の風景予想図です。
今と違って家も少なく、見通しが聞いた頃、
国分寺も、国分尼寺もとても目立った建物だったのだろうなあ。
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