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2009年3月 1日 (日)

「新編 豊川市史」の諏訪・千両墓地の記述

前投稿のつづき。また教材研究の資料置き場的投稿です。

「新編 豊川市史」(平成18年3月発行)には、諏訪墓地・千両墓地に関する記述が他にもあります。

ここに引用しておきたいと思います。

   

諏訪墓地には昭和21年より職場の同僚や遺族たち、

または戦没者個人の両親等により慰霊塔が順次建立され始めた。     

また、千両海軍墓地(千両町三月田)では、

遺族が豊川駅より約6㎞の道を歩いて墓参りに訪れたりしていた。

このため千両海軍墓地に隣接する第一機銃第五分疎開工場(現 数谷原住宅跡地)は

参拝者の休憩場として利用された。(78p)

    

被爆直後、二つの海軍墓地に仮埋葬された遺体はそのまま放置されていた。

もうすぐ七回忌を迎えようとする昭和26年5月、横須賀地方復員残務処理部長より海軍工廠戦没者遺族のもとに、次のような文書が送付された。

「さて、思い起こせば、6年前の昭和20年8月7日は、

空襲を受けて2300余名の戦死者を出した豊川海軍工廠最大の悲惨事でありました。

御令息殿もその際戦死されたお一人でありますが、

当時戦勢我が利にあらず、また、夜は灯火管制のために、焚火をすることができないので、

多数の戦没者を尋常に火葬することは全く不可能であったために、

やむを得ず工廠付近に墓地を急造して土葬いたしましたのが、

現在の諏訪墓地と千両墓地であります。(中略)」((79p)

文書は今度発掘することになったこと、遺骨をお渡ししたいことが書いてありました。

しかし6年もたっているため、次のように最後書いてありました。

「(中略)発掘いたしますけども、数十体づつ纏めて(まとめて)埋葬してあります関係上、

お遺骨が各個人別に判別し得るかどうか疑問がありますが、

若し、その判別がつかないような場合でも、

同じ職場で戦死された因縁深い方々でありますから、

分骨としてお受取り下さいますようにお願いします。

若し、受取られない場合は、横須賀にあります旧海軍墓地に埋葬いたします。」(80p)

    

『資料編現代』にも収録したように、

遺体発掘作業は昭和26年(1951年)6月1日より始められ、

16日間かけて81か所の墓地から2385柱の遺骨が収容された。

遺体発掘の通知を受けていた遺族は、諏訪と千両の両海軍墓地に集まった。

遺体は、1・5~4mの深さに埋葬されていたが、

山林の千両墓地の一部では地下に清流が流れていたため、

腐敗しないでロウ人形のように残っている遺体もあった。

女学生はおかっぱ頭のままであった。

遺族はその遺体を抱きしめ、発掘人夫の涙を誘ったという。

また、遺体収容作業を見守っていたある母親は、

見覚えのある着物を見つけたので近くの田んぼで洗ってみたところ自分の娘であったと手記に記している。

このように、遺族は僅かに判別できる着衣の柄や印鑑、時計などの所持品に記憶を呼び起こしたが、

氏名の判別した遺体は228柱のみであった。(80.81p)

    

    

※「資料編現代」も見てみました。

遺族の手記や当時の新聞記事の文章がおさめられていました。価値ある本でした。

    

こんな歴史的に重大なことがあった2つの墓地。

特に千両墓地の場所が広く知られていないのはおかしいことだと思います。

どこにあったのだろう。

また明日から、場所の特定のために動きたいと思います。

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